立花 隆氏の「東大教養学部非常勤講師」招聘顛末
―立花ゼミは無かったかも知れない―
はじめに
2021年4月30日(金) 23時38分、立花 隆さんが急性冠症候群によりご逝去された。
私が東京大学教養学部の教員だった頃、立花さんには総合科目「応用倫理学」と全学自由研究ゼミナール「調べて書く」、「調べて書く、発信する」(通称 立花ゼミ)、さらに駒場でスタートした科学技術インタープリターコースの初期の非常勤講師になっていただき、大変お世話になりました。立花さんを教養学部にお呼びした者として、その経緯を記させていただきたい。
なぜ、立花さんに授業をお願いしたのか
東大生は入学後、最初の2年間は教養学部前期課程で学ぶ。その授業は各学問分野の入門的授業が林立する。その授業は個別化した各学問分野の序論だ。分野間をまたぐものは無い。ましてや、複数教員によるオムニバス(寄せ集め)ではなく、一人の教員による文科系理科系をまたいで学問全体を鳥瞰するような科目はない。西欧では19世紀前半まで科学は自然哲学一枠で論ぜられ、各個別分野の区分け専門化はその後に起きた。だが、日本が輸入した頃の西欧科学は既に個別学問分野に分かれた後だった。この学問(特に自然科学)の底流にある共通認識(自然哲学としての総合的な世界認識)や連関がないまま、個別学問分野を学習する。これはキャッチアップには優れているが、その後の発展には弱い。日本のアカデミズムはそれぞれのタコツボの中に安住し、領域侵犯をすることを極力避ける。そのタコツボの寄せ集めが教養学部。学問分野間の関係や社会における学問の意義を統一的に論じることなくして、学部1、2年生を相手にする。多くの日本の大学は入学時には学部学科まで指定してタコツボの再生産にいそしむ。これではまずい。私が理想としたのは宇宙の歴史、構造から地球の形成、生命の発生、進化、人間社会の形成、宗教、哲学、認知科学を縦横に巡り、一人の知の巨人が語るH.G.ウェルズの「世界史概観」(岩波書店1939年)やC.セーガンの「コスモス」(朝日出版1980年)、最近ではY.N.ハラリの「サピエンス全史」(河出書房新社2016年)のような授業だ。これこそ真のリベラル・アーツ教育だ。しかし、自分は分野間を自由に飛び越える授業をするのは役不足。誰かそのような学問と社会を俯瞰するような授業ができる人材はいないか?そこで思いついたのが、その綿密な調査力で田中角栄氏を失脚に導き、「宇宙からの帰還」で科学と宗教を語り、「脳死問題」や「臨死体験」、「サル学の現在」等、多くの心と進化についての著作をものにしてきたジャーナリスト 立花 隆さんだ。彼なら多感な教養学部1,2年生を相手にこれまでのタコツボ的序論の寄せ集めを脱却し、一人の見地から人類の未来を予想し、若者たちに俯瞰的授業を展開できるのではないかと考えた。
初めは立花さんに断られた
1995年、私は立花さんに「東大教養学部で学生たちに文理を超えて、社会と学問を語り、学問を俯瞰する授業をやっていただけないか」と手紙を書いた。しばらくして立花事務所の秘書の佐々木千賀子さんから電話をもらい、立花さんに会うことになった。
指定された日時に合わせ、丸の内線「後楽園前」駅で下車し、言われた通り、猫ビルに向かった。何万冊もの本にあふれた内部写真を見ていたので、猫ビルの細さに驚いた。呼び鈴を押すと初対面の佐々木さんが現れ、上階に案内された。そこには夢中で何かを執筆中の立花さんがいた。彼は手元の目覚まし時計を見ながら時間を限って筆を止め、私との会話を始めた。私が東大で授業を担当してほしいと言うと、「僕は若い学生たちとdealするのは気が進まない」、「自分は若者が好きじゃない」、「取材や原稿書きに追われているので授業をする時間がない」というネガティブな答えが返ってきた。頭の中の執筆エンジンがかかっているから早く切り上げたいという様子。どういう流れだったか、私は「脳死臨調」や「臨死体験」の著者である立花さんに話す機会はもう無いと思い、その3年前に亡くなった父の最後について話した。臨終の父は心の中で何かを言っていた。しかし声として意思を表明できない。最後に言いたいことを言えないのはまさに「もの言わぬは腹ふくるるわざ」。とても辛いだろう。家族も聞きたい。最後の会話をしたい。人はみな、そうやって残念な最後を迎えるのではないか。私はついでに臨終宣告の直後、家族同士で「おい、喪服を持ってきたか」と話しだした時、死に逝く母親の眼から涙が流れるのを目撃した看護婦から聞いた話もした。彼女は後に出家し、僧侶になった。臨終宣告後も聞こえている、でも発声が叶わない。そのもどかしさについて話すと立花さんは埴谷雄高の「死霊」について語ってくれた。だが、肝心の「東大で授業をやろう」という話にはならず、割り切れないまま猫ビルを後にした。
先端研に救われた
それからしばらくして佐々木さんから研究室に電話が入った。次に出てきたのが立花さん。来年度から駒場にある東大先端研(先端科学技術研究センター)の客員教授をすることなったので、ついでに教養学部で週一程度なら授業をやってみようかと思うという話だった。ここは先端研に感謝しなければいけない。
早速、私が所属する教養学部生物学教室の教室会議で立花さんによる授業開講の可能性について説明し、生物学教室に割り当てられた非常勤講師枠の一つを使わせてもらえないかと願い出た。ようやく了解をもらい、次なる学部教務委員会で審議された。その結果、総合科目の一つである「応用倫理学」枠でどうかという話になった。「応用倫理学」という講義名を立花さんに伝えると「へえ、倫理の応用? でも、面白いかも」という返答。職名は客員教授ではなく、非常勤講師。教養学部教務課によると客員教授は学部の授業は担当出来ない規則だと断られた。もっと適した職名はないのか?学外の識者に対するリスペクトが東大には足りない。
こんなこともあった。ある日の深夜、自宅に学部執行部の某氏から電話が入った。「なんで教養学部が立花 隆の売名行為に加担する必要があるのか!」。私は東大の前期課程に専門分野にとらわれない俯瞰的授業が必要。しかし、そのような茫漠とした授業は立花さんしかできないと説明した。その数年後、教養学部は、立花さんにその運営諮問委員への就任を依頼した。学部執行部の節操の無さには驚いた。
「応用倫理学」の開講
立花さんは授業の統一テーマを「人間の現在」とした。「1996年度教養学部前期課程履修科目紹介」という冊子に載せるべく総合科目「応用倫理学―人間の現在―」のシラバスを入稿。締め切りギリギリだった。立花さんの希望で授業は週一回、午後6時からの開講。教室は午後8時以降に使用予定がなく、できるだけ多くの学生が入り、スクリーンと書画カメラがある教室が望ましいという申し出が来た。それらの要望を満たす教室として、学部教務課は教養学部3番目に広い360名収容の大教室(13号館1313教室)を割り当てた。その後、立花さんは先端研からの帰り道に使用予定の教室や図書館を見に教養学部を訪れた。
そして、いよいよ1996年度4月から立花 隆非常勤講師による「応用倫理学」が始まった。開講初日の午後5時ごろ、立花さんは秘書の佐々木さんと共に大量の資料を入れたトランクを引っ張りながら生物学教室のゼミ室に現れた。彼の非常勤講師枠は生物学教室分を使うので、生物学教室が根拠地。以降、授業前にその部屋で一服し、授業後も一服しながら学生たちとの打ち合わせをするスタイルが続いた。
授業が始まる頃に、13号館の周辺は大教室に入りきれない学生たちであふれていた。その多さを見て、立花さんもやや困惑気味。ついに彼は「やるっきゃない」と一声を上げ、教室に向かった。建物の入り口にあふれる学生たちをかき分けて教室に入る。階段教室の通路階段を下りて教壇に近づくが、履修希望者が階段やフロアにも座り、なかなか教卓まで進めない。ようやくたどり着くと立花さんは開口一番、この授業はただ聞いていれば済むタイプの授業ではない。毎回、レポートを書かせる、いくつかのグループを作り、そのグループ内であらかじめ課題を作り、それに関する調査や議論をし、それを授業中に発表してもらう等々、この授業は生半可な態度では受講できないと宣言。その後、授業は初回なので、まず、自己紹介を兼ねて立花さんの生い立ち、東大に入ってからの自分史を語った。話は3時間に及んだ。学生たちに自分の学部生時代の国際会議に出席や海外放浪の旅を話し、学生は留年を恐れるな、やりたいことを真剣にやれ、こんないい時期はない。さらに、やたら多くの授業には出るな、テーマを決めて勉強しろと自らの経験を踏まえて檄を飛ばした。彼は自分史を語った後、受講生をグループ分けした。なんとその作業中に自発的にリーダーシップを発揮する積極的な学生たちが現れ驚かされた。その後、グループ内で学生同士の自己紹介や課題設定に関する議論が続いた。毎回、彼の授業は3時間以上の講義と議論だった。後で聞いたが、佐々木さんはこの日の日中、内視鏡手術で大腸ポリープを切除したばかりだったとか。激しい立花さんにはそれに負けない根性の秘書がよくいたものだ。
立花ゼミホームページの開設でエンジンがかかった学生たち
講義のはじめの頃、受講希望者が想定以上に多いので、立花さんは独自の採用基準を3つ提示した。1)くじ引き、2)レポートの高評価順、3)授業内容をまとめて発信するホームページ作成に参加するボランティアグループ。もし、何か特別に理由があれば相談に来いとのこと。あとから振り返ると、この3)に汗を流した連中が立花ゼミの主体となり、それゆえ、その後の人生に立花さんの影響を強く受けた学生たちも3)の中に多くいた。立花さんは授業開始前から授業のホームページを作りたいと私に言っていた。私はその頃まで「授業のホームページ」の何たるかについて何も知らなかった。初回講義の終了後、急遽、ITに詳しい受講生たちが自主的に作業チームを作り、私の研究室のデスクトップコンピュータを使って「応用倫理学ホームページ」を作り始めた。彼らはこの作業に徹夜も辞さない学生たちばかりだった。
立花さんの講義は非常に広範囲にわたった、政治関係はむしろ少なく、科学や芸術が多かった。話は武満 徹、マルセル・デュシャンの作品論から急にドレイクの方程式の話。地球、太陽、太陽系の形成、地球生命の誕生と進化。銀河系の形成、宇宙の形成に及んだ。その大宇宙を逍遥する展開と内容の濃さは私の期待を超えた。
授業を続けたい
この授業の開講は1996年度の夏学期という期間限定。話しきれず、次第に守衛に促されて講義を終える日も増えてきた。教室を追い出され、さらに生物学教室がある建物の大会議室でゼミを続ける日もあった。夏休み中には泊まり込みで合宿もした。 ある晩、授業後に立花さんは「この授業を冬学期まで延長できるかな」と言い出した。私が猫ビルにお願いに行った時には、学生とdealするのは嫌いと言っていた立花さんが、さらに授業枠が欲しいというのだ。この学生たちなら書物やTV番組とは違う形で自分の考えや生き方を伝えることが出来ると手ごたえを感じたからだろう。実はその頃、「応用倫理学」の授業枠の責任母体の教室から、立花さんが講義をすると他の教員による「応用倫理学」枠の受講生数が減るので次年度の続投は好ましくないと言われていた。そこで、再び、生物学教室枠の非常勤講師枠を使って立花さんに冬学期の「全学自由研究ゼミナール」をお願いしたいと生物学教室に申し出、承認された。このゼミは東大紛争の後、学生と教員が親密に議論しながら進める授業が必要と、それまでの反省をこめて新しく作られたユニークな授業枠だ。そのスタイルと内容は講師の自由。成績は合否のみ。一方の「応用倫理学」は総合科目の一つ、100点満点で成績が付き、それが進学振り分け(進振り)にカウントされる科目だ。全学ゼミなら、進振りとは無縁なのでその方が立花ゼミに適する、ということで、1996年度冬学期に「全学自由研究ゼミナールー調べて書く」がスタートした。翌年度からはゼミ生たちは学生自治会に「学生の要望による非常勤講師枠」を得て、自治会から学部教務委員会に申請した。それが教養学部教授会で承認され、次年度も「立花ゼミ」が継続することとなった。そのゼミのタイトルは「調べて書く、発信する」。立花さんは中心テーマを立てて、それをもとにゼミで一冊、本を作ろうと呼びかけた。早速、テーマの選定で話が盛り上がる。沢山のテーマが提案され、一件ずつ議論し、投票。最多票を獲得したのが「二十歳のころ」。これは無名有名な人々が20歳の頃、どんなことを考え、どんな生活をしていたかを取材してまとめるという企画。丁度、受講生たちの年齢にふさわしいテーマだった。アポ取りから、取材、原稿化のすべてを学生自身で行い、何度かの非売品の予備出版を経て完成し、ついに完成体が新潮社から売り出された。書名も「二十歳のころ」。以後、この本は多くの人々に読まれ、文庫版となり版を重ねている。その後も立花ゼミの活動は何冊かの本の出版に結実した。
立花さんが理科教育に目を向けた
学習指導要領の改訂により、高校理科(物・化・生・地)4科目のうちの2科目選択必修化が行われた。その新教育課程を経た第一陣が1997年4月に入学してきた。その結果、自分は高校で1時間も物理あるいは生物を学習していないため、未履修分野はさっぱりわからないと公言する大学生が増えてきた。将来、医学部に進学する理科3類においても高校生物の履修率は4割。その状況は20年以上経た現在も変わっていない。これを問題視した私は生物学教室の協力を得て高校時代の理科履修歴と大学1・2年次の生物系科目の成績との間の相関調査を行った。その結果、高校生物の未修者は既修者に比べ、教養学部の1年生はもちろんのこと、1年間、生物学を履修して2年生になっても生物学系科目の成績が既修者に比べて平均2割低いことが分かった。統計学的にも有意だ。高校生時代に物理を学習した学生と学習しなかった学生たちの差も大きい。そのため、物理学教室は入試での物理選択者と非選択者で異なるクラスを編成し、未修者には、高校物理から教える履修歴別授業を行った。生物学教室は初年次向け「一般生物学」を高校時代で生物未修を前提に授業を展開した。大学教育の高校化だ。
私はこの理科未履修問題を立花さんに説明し、彼も問題意識を共有した。そこで、立花さんと農学部の正木春彦さん、さらに東工大の星 元紀さんらとともに「高等教育フォーラム」という団体を立ち上げた。投稿形式のホームページを作ったところ、そのヒット数は1年後には100万を超えた。数回のシンポジウムを開催し、文部省への提言もおこなった。この問題はマスコミでも取り上げられ、東大以外の旧一期校大学の中に入試センター試験と個別大学二次試験で異なる理科科目を選択させ、合計理科3科目の学習を課すようにした国立大学も出てきた。文科省のおひざ元の東大は相変わらず、今も物理・化学か化学・生物という二通りの偏った履修歴の入学者を受け入れ続けている。地震や台風が多い日本にあって、地学履修者はほとんどいなくなった。
高校生物ではイオンについて説明できない。イオンは高校化学の守備範囲であり、それを越境して教えることができないからだ。高校生物ではヒトの妊娠、避妊、性接触性感染症(STD)を教えることができない。感染症に関する教育もない。保健体育の守備範囲だからだ。だが、事実上、皆無に等しい。現在も新型コロナウイルスによるパンデミックに最も無知な国になっている。省庁の縦割りと同様、セクト主義は学習指導要領まで及んでいる。分野間の越境は欧米の高校理科はむしろ常套手段。その方が自由にテーマを展開でき、生徒の学習意欲を喚起し、理解を深められるからだ。日本は逆に分野間の連絡を絶って面白味を減らしている。
高校での偏った理科履修歴は、以後の未修科目への苦手意識を生む。残念ながら、理科4領域の必修選択制は二十数年間を経た今日も続いている。自然科学は元来、シームレス。分子生物学は物理学者が作った分野だ。他の生命科学でも物理学や数学が武器となる。化学物質による環境汚染は生物学の問題でもある。科目間の相対関係を教えない理科教育は日本の科学技術を弱体化する。科学に対するリスペクトがない教育をする国は亡びる。立花さんはこれを契機に大学教育、中等教育についても盛んに発言し始めた。「東大生はバカになったか」(文藝春秋社)はその代表作。
最後に
東大教養学部での立花ゼミは1997年度で終了したが、その後も自主ゼミとして継続。2005年の秋から教養学部内で科学技術インタープリタープログラムが始動し、同時に立花さんの再登壇と立花ゼミ復活が実現した。その後、立花さんは立教大学でも立花ゼミを始め、さらに東大情報学環の特別教授として東大の大学院でも多くの学生達の心に火を灯し続けた。彼の分野にとらわれない、すさまじいまでの好奇心、取材力、文章力、ディベート力、突破力と哲学は歴代のゼミ生に大いなる影響を及ぼした。その哲学は彼が亡くなった後も各界で活躍する元ゼミ生たちの生き様に反映されていくだろう。その意味では立花さんは活き続けている。立花ゼミ開講に関与した者として感慨深い。
本年4月30日 の夜、立花さん本人がナースコールのボタンを押し、ご逝去されたそうだ。彼は自分の身体に異常を察知し、ナースコールしたのだろう。その後、彼の頭脳は血流が途絶えても滞留する血液に酸素がある間、そして神経細胞内のATPが尽きるまで作動し続け、混濁しながらも意識を維持できたのでないか? 恐らく彼は4月30日の夜、「あっ、これが臨死体験です」と頭の中でその様子を実況中継していたのではないか。彼本人による本当のエピローグを聞きたかった。
心より、哀悼の意を表します。立花 隆先生、有難うございました。
東京理科大学教授、東京大学名誉教授、(ドイツ法人)国際生物学オリンピック議長、宗教法人眞福寺住職
追記
誠に不謹慎ながらその実況中継を想像してみた。もう確認するすべはない。間違っていたら、立花先生、お許し下さい。 いつか、私自身で裏を取ります。
・・・・・・・・・
「えーと、死っていうのは明らかに何段階があるんです。私の場合は瞬間的な脳の破壊による即死ではなく、幸いベッドの上で時間をかけて死を迎えることができそうですので、じっくり自分が死ぬ過程を観察してみたいと思います。いよいよ、それが出来る瞬間が来ました。
まず、死の第一段階としてアウトプットが出来なくなる。つまり、さっきナースコールを押すことができたのに、今は筋収縮を起こすことができず、指も眼瞼も動かすことが出来なくなりました。もちろん、呼吸が止まったので声も出せません。でも外から音は聞こえる。つまり、まだ入力はあるんです。
(中略)あー、ナースがやって来た。脈が消え、瞳孔が開いたので臨終だと判断している。ナースが瞼を閉じてくれてもまだ眩しい。瞳孔散大のせいか、網膜や視覚野の神経細胞のカルシウム・バーストのせいか?
それにしてもやけに明るい。眩しい。これは聞いていた通りです。でも、まだ思うことができる。脳内に滞留している血液中のヘモグロビンが酸素を持っている限り、あるいは神経細胞内ATPがある限り、脳は動く。甦るとしたら、今しかない。でも、ぐいぐいと死の世界に吸い込まれていく気がします。あのー、見当識はまだあるつもりです。脳死はまだです。
やはり、ここで短時間であっても意識があるうちに臓器を摘出するのは明らかに殺人行為です。脳死論者も自分がこの時期に差し掛かった時に分かったんじゃないかな? 脳が完全な器質死に至っていない。まだ、私は思考している。我思う、故に我ありです。
(中略)えーと、だんだん音が聞こえなくなって来ました。いよいよ入力喪失の段階に入ってきました。
(中略)えーと、世界がとても静かです。入力も喪失し、呼吸筋や心臓を動かす負担も無く、括約筋も緊張する必要がなくなった。体内の騒音源がなくなったので、とても静かで楽です。もう、死の世界に入って来たようです。
(中略)こ、この経過をみんなに伝えたい。哲学的にも医学的にもものすごく興味深い領域です。もしアウトプットする時間とエネルギーがあれば、「人間の現在」の完結編としてベストセラーの本が書けるし、視聴率トップの面白いTV番組も作れます。でも、もう自分はそれが永久にできない。
(中略)し、死に逝くというこんなに面白い瞬間が一度は誰にでも訪れるのに、それが明確に記述できていない。人類に言葉というミームができて何千年も経つのに、誰一人として記述に成功していない。実に残念です。脳活動を直接、言語化できる技術の完成が待たれます。
(中略)皆さん、誰でもいずれこの瞬間を経験します、、、。
(中略)えーと、まだ思考している。脳が考えているのか、身体の他の部分が考えているのか分からない。脳と同じ程度の神経細胞がある腸かも知れない。
(中略)あー、これが死かー。 えーと。あのー。そのー、、、。
(中略)ーーー。