立花ゼミ生から先生へのメッセージです。生前に親交のあった方々からのメッセージはこちらです。

「どの人の自分史もみんな、おもしろいんです」

シニアの学び直しのための「立教セカンドステージ大学」(以下、「RSSC」)開校のチラシに、講師の一人として立花隆先生の顔写真があった。こんなビッグチャンスなど、めったにあるものではない。そして、その予感は的中した。

立花先生の「現代史の中の自分史」という講座は、RSSC一期生だけに与えられた、確かにまたとない幸運であった。が、それは同時に自分史という“魔物”に取り組むことを意味していた。一方、指導する側の先生はお一人で、毎週50名近いシニア学生たちが書きなぐる原稿すべてに目を通し、徹夜状態のまま大荷物を携えて授業にいらっしゃった。入院中の病室から教室に直行された日もあった。

ところが、その自分史が書籍化され(『自分史の書き方』講談社/講談社文庫)、「ラジオ深夜便」に出演された先生は、とっておきの秘密でも明かすかのように「それがね、どの人の自分史もみんな、おもしろいんですよ」と声を弾ませていた。あ~、これぞ立花先生! ひとり一人の平凡な人生にも分け隔てなく興味をもって接してくださり、そのお陰で私たちはどうにか自分史を書き上げ、結果として自らの人生を肯定できたのではなかったか。

先生はまた自分史の内容もよく覚えておられ、たまにお会いすると「娘さんはどうしてるの?」などと質問される。そこで、たまにはこちらからも玉を投げ返す「先生こそ、いかがなんですか?」 すると期待すらしていなかった返答があって恐縮したことも。 

RSSC一期生を中心に修了生の有志でつくる「RSSC読書会」はこの10月、先生を偲ぶべく通算122冊目の課題本として『知の旅は終わらない』を取り上げた。先生のご著書としては2012年に取り上げた『宇宙からの帰還』以来2冊目である。先生は間違いなく、類い稀な天才だし、抜群の好奇心と探求心をもち、ペンで戦うヒーローであり、「知の巨人」と称され……云々。しかしながら、私たちが真っ先に思い浮かべるのは、あの独特な語り口調と、そしていかにも楽し気で大らかな、あの笑みなのである。

そんな先生と近しく過ごせた幸運を、いままた皆でしみじみと噛みしめている。

一同、心より感謝を込めて――。

立教セカンドステージ大学講義「現代史の中の自分史」立花隆ゼミ
立花先生のライブ講義録

この人の言葉を、一言一句、聞き漏らすまい。
初回の講義を受けた時、全神経を集中させて先生の言葉に耳を傾けた。
そんな風に思える人に出会えることは、人生においてそれほど多くはない。

立花先生の著作は、沢山ある。
自分はゼミ生だったから、普通の人よりも先生の著作を多く読んでいると思う。

でも正直なところ、先生の本は、むずかしい。


文章や本を読み慣れている人であっても、あまりにも先生が深くしつこく(いい意味で)探究心を持って取材をしたり、調査をしたりしているために、読者がそのペースに追いつくことができず「ちょっと待って、休憩させて」と言いたくなるのだ。
私にとって、先生の本を読むことは、体力を必要とすることで、読み手にもそれなりの覚悟が求められているような気がしてならない。

著作や映像などに、先生の言葉や姿は収められているが、
実際の大学の講義は、いわゆる「ノーカット」なので、全然違う。

アーティストの楽曲を聴いたり、CDを買ったりする人が、ライブやコンサートは全然違うよ!と言うのと同じで、先生の講義も、ライブのそれは、もう、受けた人にしかわからない、アドレナリンが放出されまくりの、毎回スタンディングオベーションが起こりなそうな、そんな授業だったのだ。



初回の授業に参加したあと、この人の言葉を、できるだけ近くで、聴けるだけ聴いておきたい、自分の血肉にしたいという思いで、ゼミ生になった。
著作や映像には残されていない、生の先生の姿について、ここに書き記しておく。

先生の授業を受けたのは、今から11年前。私がまだ19歳の大学一年生の頃。
立教大学には、「全学共通カリキュラム(略して全カリ)」と呼ばれる枠がある。
学部を限定せずに受講ができる、いわゆる一般教養の授業である。

当時、立花先生のことは「この人確か有名なジャーナリストだよな」と言うぐらいの認知で、おそらく私と同じような気持ちで授業を覗きにきた学生は多かったと思う。

初回の授業の印象はとても強いものだった。

立花先生は、複数のアシスタントとともに、小さなスーツケース(資料が沢山詰められている)を引きずりながら教室に入ってきた。周りにいるアシスタントの年齢層は幅広く、院生のように見える少し年上のお兄さんぐらいの人から、自分の祖父母と同じぐらいの年齢の人までおり、皆が甲斐甲斐しく、立花先生の周りで授業の準備をしていた。


先生はおもむろに「E=mc2」と黒板に字を書き、「みんな、これは知っているよね?」と話し始めた。

この人は一体何を話し出すのか?先生が次から次へと話す言葉がなんなのか、気になってしょうがない。ワクワクドキドキと言うのは、こういう感情を言うのだ。

アインシュタインの公式を解説する話だったのだが、こんなにもわかりやすく説明をすることができるのだろうか!と驚いた。
本当に頭の良い人は、難しい言葉を使わなくても、難しいことを説明できるのだ・・。と気づいた瞬間だった。(同じように再現しろと言われても、できない。ライブ講義で、あれは先生にしかできない解説だったのだから!)


「わかる」と言うのは、「ストンと腹落ちする」と言うことです。と先生はニコニコ笑っていた。その言葉の通り、自分の体内で本当に何かが「ストン」と落ちたのを感じた。



90分に渡る講義は、あっという間だった。
あの時、同じような気持ちになった学生が、沢山いたと思う。教室全体が一体となって、先生の話に聞き入っていたのが空気でわかった。


初回の講義とは別にもう一つ、印象に残っている授業がある。

「書店を巡回し、本を手に取り、購入するまでの流れをレポートにまとめる。なぜその本を手に取ったのか、巡回している時に目につくものがあれば、なぜそれが目についたのかまで詳細に記録する」という課題を提出するものだった。

課題提出における、教授からのフィードバック形式は様々で、五段階評価を付けられたり、個別に返却されたりするが、立花先生の講義では、先生が学生のレポートに直接赤入れをしたものが、教室のプロジェクターで投影されたのである。


それも、良い評価のレポートだけではなく、良くない評価のレポートもなのだ。
自分の書いたレポートが数百人の学生の目の前に晒され、「ここの書き方はイマイチですね」などと評価されるのである。まさに「公開処刑」なのだ。

良い評価の場合、大勢の前で褒められるというのは、気分が良いもので、次回も良いものを仕上げようというモチベーションにつながっていく。
逆に、改善点を指摘された場合、恥ずかしさがまず先に来るのだが、改善点を直して次は指摘されないようにしようと前向きに捉えられる学生と、卑屈になったり、羞恥心に耐えられなくなったりして、授業に来なくなってしまう学生がいる。

最終的には、度重なる公開処刑を耐え抜いた学生たちが残り、提出されるレポートの質は上がっていった。

驚くべきは、これが数人〜数十人から構成されるゼミなどではなく、数百人はいる授業だったことである。先生は立教大学の講義だけではなく、執筆活動なども沢山抱えていたにもかかわらず、数百人のレポート全てに目を通し、赤入れを行っていたのだ。
いったい、いつ寝ているのだろう・・と皆疑問に思っていた。

また、舞台裏の話も少し。
小石川にある立花先生のオフィス(通称:猫ビル)に伺い、先生自身に取材をさせてもらう機会があった。取材の最後に差し掛かり、「これから社会に出ていく若者や学生に望むことは何でしょうか」と私が尋ねた際に、先生は黙ってしまったのだ。
怒らせてしまっただろうかとヤキモキしてしまい、何か言葉を発すべきか悩んだが、沈黙のまま数分待った。沈黙ののち、先生は「失敗をすることです…」と話し始めてくれた。
数分間の間、先生はずっと考えていたのだ。あの時、途中で口を挟まなくて良かったと、取材終わりに安堵したものだった。
(21時に近くなった時、そろそろニュースが始まるので、失礼するよ と言って先生は立ち上がり、TVを見にいってしまった。)

少々長くなってしまったが、私の記憶にある、先生の生の姿を書き記させていただいた。
(先生が読んだら、「ここは読みにくいですね」とバッサリ赤入れされてしまうかもしれない)

立花先生は、学生と真摯に向き合ってくれる、優しくて偉大な先生だった。
自分の血肉となった、先生との大事な思い出をしっかりと胸に抱え、これからも前を向いて生きていこうと思う。

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ
As every cat owner knows, nobody owns a cat now..

「今君たちの学校には凄い質的調査(インタビュー)の手本がいるんだよ」大学二年生の時分、暗中模索の時期にある中、退屈に感じた授業の中で講師がこのような旨の発言をしたのが立花との出会いの切っ掛けだった。ん?何か聞いた事のある名前。調べたら地元の政治家に関わる書籍で著名であるとかという情報がすぐに出てきた。

履修登録もせずに「大学 と現代社会 」の講義に潜り込んだ。
未だに称える人も少なく無い権力者を倒した男の顔を拝みに行く、というのが初めて出会ったときの心境で
思い返すと一種の好奇心、敵愾心、不安の複合体であったように思う。

顔の見える前席側に座り始め授業が始まった。
話を聞いて数分経たないうちに「あっ…、この人の話を聞くためにこの大学に来たんだな俺…」という感情しかなくなった。
退屈で凡俗な講義と異なり、政治から素粒子、ガン、類人猿…様々な領域を縦横無尽に駆け巡り関心と興味を繋げてくれる知の巨人の教えに魅了されてしまった。
最初に抱いていた事は途中でどうでもよくなり、すぐにこの人の話を今聞かないと生涯の損失になると確信した。授業後に立花から許可を貰い講義を履修してないが参加させてもらうことに。
翌年から正式に履修しゼミにも参加させてもらい、翌々年の授業では初めて会った時と同じように前に座りながら講義録をとるという仕事をさせてもらった。
知の巨人の背中に乗らせてもらい様々な世界を見せて貰いながら話を間近で聞けたのは幸せだったと思う。

実際に立花と直接会話し一対一で教えて貰った機会は多くはなかった。が、常に道標になってくれた。進むべき道がわからず悩み戸惑っていた二十代中盤に喫茶店で涙ぐみながら「エコロジー的思考のすすめ」の一部を書き写した。立花の思考の一部を血肉にしようと思いながら―。何割かを写した時何かをつかんだような気がしたが先輩諸兄とは違い、出来の悪い私は未だ何物にもなり切れていない。知の巨人から渡された(?)バトンをもってきちんと結果を出せるかわからない。もう「こねこ」と言われていたあの頃の年齢でもなくなってしまった。 立花の影響がなければ今の方向にはいない。それでも進むしかない。

立花先生ありがとうございました。
さようならさようなら、どうか安らかにお眠りください

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ
面白く・本気で

2007年、私は「大学と現代社会」という立教大学の授業で立花先生に出会った。
「こんなに面白そうに生きている大人がいるんだ・・・」というのが第一印象で、授業はとてつもなく面白く、世界が大きく広がっていった。
授業以外でも、立教セカンドステージ大学のTA(Teaching Assistant)や、先生出演のNHK番組オブザーブ、缶ビールを片手に小石川の夜桜見物など、楽しい思い出ばかりだ。
先生の存在、生き様に魅せられていた。

当時、私は就職活動に苦戦していた。何十社と面接に落ち続けるうちに、社会の誰からも必要とされないのでは・・・という恐怖に押し潰され、劣等感に苛まれていた。そんな悩みを先生にポロッと吐き出してしまった時、それまで穏やかだった先生が目の色を変えた。

「あなたたちと一緒にいるとね、すごく気持ちが良い。
立教に来て、こういう人たちが社会を作っているのか、と僕は驚いたんだよ。
あなたみたいな人も世の中にはすごく大事なんだ」と熱く語ってくれた。

あの立花隆が、真剣な目をして、一学生に本気で向き合い、言葉を紡いでくれたことが本当に嬉しかった。もう少し頑張ろうと思えた。
そして、いつか私も誰かと本気で向き合い、相手の心を動かし、背中をそっと押せるような人になりたいと思った。

最後にお会いしたのは2019年1月。「私もう三十路になるんです〜」と言うと「えー!中田さんが30代!?それは俺も歳取るよな〜」と笑いながら仰っていた。

その後、「ボエミアンラプソディ観た?」という話を口火に、エイズ→男色→アイドル→江戸時代の武士文化→室町文化→漫画→トキワ荘→自分史→戦争→宮崎駿・・・と話が移り変わり(でも繋がっている)、
側にある本を出しては「これは面白いんだよ」とキラキラした目でたくさんの話をしてくれた。
卒業後10年振りのワクワクした時間は、なんと貴重だったのだろう。

もう先生の話が聞けないなんて悲しい。寂しい。でも、先生に甘えてばかりではいけないということなのだと思う。

これからも悩みもがきながら、面白く、自分の人生を歩んでいきたいと思います。
先生、本当にありがとうございました。

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ
先生への感謝と、僕の思い

今から11年前の立教大学の全学共通カリキュラムでの授業で立花先生と出会いました。

その授業で有志のゼミの集まりがありました。そこに参加し、菊入さんや他の仲間と授業の手伝いをしました。

当時、僕は大学4年でした。猫ビルを見学したり、先生と少し言葉を交わせたのは、学生時代の良い思い出です。

先生の知識に対する欲求は、授業を聞いていても普通の人では考えられないものだったと思います。当時、癌を患ったばかりで、授業で取り上げていた印象が残っています。

訃報を聞いてから、一ヶ月近く経過しましたが、まだ現実を受け入れられないでいます。

先日、池袋のジュンク堂に行ったとき、先生の追悼コーナーがあり思わず手にして本を読み直しました。
「知の旅は終わらない」という本の最後の章に、書きたい本があると書かれていました。そして、それはやりかけのままに死ぬだろうとの言葉が残っていました。もしかしたら、まだやり残した仕事があったのかもしれません。

自分ごとですが、僕は最近、小説を書き始めました。アマチュアレベルのもので、拙い部分がありますが、賞を目指しています。

こんなことを公言するのは、自分への戒めの意味を込めています。書くことはとても孤独でエネルギーがいることです。それを痛感しています。

先生が成し遂げられなかった仕事や、やり残したこと、何か形にしたいと考えています。

まだデビューもしてない、本を書いたことのない僕がこんなことを書くのはおかしな話ですが、自分には失うものが何もないと思っています。もし、デビューできなかったら笑って見過ごしてください。

でも、言葉の力を信じて、何かできるようになりたいと将来に期待を込めました。

先生、ありがとうございました。

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ
違う世界を教えてくれた先生

立花先生との出会いは、
大学生活にちょっと飽きてきた大学1年の後期でした。
あの「立花隆」の授業が本当にあるのか今ひとつ信じられず、
当日まで同姓同名の可能性を疑っていました。

無事に(?)ご本人が登壇して始まった授業は
「文章は短く書け」という本当に
基本的なところからスタートしたと記憶しています。

なかでも一番印象深いのは、
脳の話をしても、宇宙の話をしても
いつも楽しくて仕方がないという先生の表情です。

ガンになった時ですら、ガンについて調べ、
嬉しそうに話していました。

あんな楽しい世界があるのか。

それまでろくすっぽ本を読んだことがなかった自分が
「知の世界」を知った瞬間でした。
その流れでゼミ生となり、さまざまな方に取材をしたり、
アウシュビッツにも同行させてもらいました。

先生本人にお話を伺った時は、
厳しいコメントをもらい落ち込みましたが、
今では、それも先生の優しさだったのだと思います。

失敗にすらなっていない失敗を含めて、
数多くの経験をさせてもらいました。

「何事にも物怖じするな。」
卒業の時にいただいた言葉を、今でもふと思い出します。

あまり僕は猫ビルや授業にちゃんと顔を出す方ではありませんでしたが
先生やゼミのみんなと出会わなければ、多分、違う人生でした。

本当にありがとうございました。

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ
立花先生とゼミ生の熱量は、アルミの発火点を超えるか?

ある日のゼミの活動の後、先生がアルミ箔を手に持ち、ゴミ箱の前に佇んで考え込んでいました。 
「先生どうしたんですか?」と声をかけると、
「石坂君、これはどっちのゴミ箱に捨てるの?」と先生。
「アルミホイルは燃えませんから、燃えないゴミですよ」と私が伝えると、先生は
「アルミホイルも燃えるよね?」とまじまじと言われたことがありました。
「でも、こっちでいいんですよ!確かに高い酸素濃度と熱があればアルミニウムは燃えますけどね」

笑い話のような話ですが、立花ゼミは、空気中か酸素中かではないですが、様々な前提や制約を取り払って自由な発想で活動を展開していく熱量の高いゼミでした。
ゼミの時間のグループ単位での研究の進捗の報告についても、個々のゼミ生のブログの発表も千差万別で 「戦争遺跡」、「戦争犯罪」、「平和教育」、「エロス研究(性革命、LGBTとゲイバー、小沢昭一氏の講演、チカン等)」、「ヌーヴェルヴァーグ(映画運動)」、「学食研究」等々。多岐にわたる報告について、先生から投げかけられる質問は急に熱がこもったり、ゼミ生にとって想定外の問いであることも多く、ゼミ生がたじろぐこともしばしば。しかし、その問いは、問いただす質問というよりも、純粋に先生が知りたいと思っている事であり、その先生の着眼点からゼミ生も多くのことを学ばせていただけました。また、任意参加で行われるゼミのフィールドワークも熱心に多くのゼミ生が参加し、好奇心の塊であった先生と一緒にあちこちに足を運び、先生の視点や言葉から語りつくせぬほど多くの学びを得ることができました。
(LGBTのゲイ当事者である私が企画した立花ゼミのゲイバーのフィールドワークなども行いましたが、ここでは分量的に書き尽くせないため、またいつか別の機会に言葉にできたらいいなと思います)

なお、博士前期課程を修了し、私が中野区議会議員となった後も、連絡を取らせていただく機会が何度かありました。例えば平和の取組について第二次世界大戦末期に原爆の熱線や放射線に晒された広島市での取り組みを調べるために単身で地方行政視察に行った際、原爆資料館でどんな資料を見せてもらうべきかを事前に先生と連絡を取って教えていたのですが……。改めて当日の朝、新幹線が丁度広島駅に着くころに、先生から携帯電話に着信があり、慌ててホームに降りて電話に出ると、
「あ、石坂君?原爆資料館や原爆ドームに行く前に広島城に行ってみて。最上階から広島市内の地理や建物の位置関係をしっかりと把握をしておくといいから」とのこと。その結果、急遽の予定変更をすることになりましたが、とても中身の濃い視察ができました。これに限らず先生からの追加情報はいつも突然でありつつも、ドンピシャのタイミングでいただけることが多く、慌てさせられることと、予期せぬ成果が得られることがセットでついてくるような感じでした。

「そんな事突然言われても」と思う人もいるのだろうなと思いますが、急に熱がこもり閃いたらすぐ行動に起こして言葉にして相手に伝える。そんな立花先生の姿がとても好きでした。

立花先生、ありがとうございました。

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 立花ゼミ
長崎同行記

2010年当時、立花ゼミではもっぱら戦争遺跡、原爆などに焦点を合わせて、勢力的に都内近郊の戦争遺跡を訪ねたり、その関係者に来ていただいて講義を伺ったりしていた。

この年の7月、長崎に取材をされる先生に同行させていただく機会があった。わずか二日だけだったが、うろ覚えながらその時のスケジュールをご紹介し、私が垣間見た、先生の精力的な足跡の一端をお伝えしようと思う。

まず被爆者で語り部をされていたSさんに1〜2時間のインタビューを行った。その後、長崎市長から昼食を兼ねた懇談のお誘いがあり、任期3年目の田上市長と1時間ほど懇談を行った。

その時、ご紹介を頂いた戦時中の防空本部(立山防空壕)を隅々まで見学して、「聖母の騎士修道院」に向かった。ここはアウシュビッツで他人の身代わりとなって死を選ぶことになったコルベ神父が、昭和5年から11年まで長崎で創設し神父を努めていたところで、気さくな小崎神父からコルべ神父の話や、ご自身の被爆体験などを熱心に聞かせていただいた。

翌日は『長崎の鐘』で知られる永井隆博士が、亡くなるまで白血病の療養をされていた如己堂を尋ね、無言ながら感慨に浸られていた。人に会わないとしても、現地を訪れ実物を見ることを重視されていたようだった。

続いて、長崎大学医学部(旧長崎医科大学)。ここは立花先生ご自身がお生まれになったところだ。当時医師であり、自らが爆心地近くで被爆しながらも、被爆直後から精力的に被爆者の治療を行い、その模様を『死の同心円』に著した秋月辰一郎博士の奥様であり、被爆当時看護師としてともに被爆者治療にあたられていた秋月寿賀子さんにインタビューをされ、その主治医でもあり秋月博士の後輩でもある医学部の先生に、放射能の問題や被害の内容などについて、質問を投げかけていた。

どの相手に対しても、相手に合わせて丁々発止の質問を次々に繰り出されるさまは、相当の事前の準備がなければできないことで、また人名などの記憶力の良さに舌を巻くこともしばしばだった。

単に馬齢を重ねるのみの自分を省みると、一生尽きぬ興味を持って生き抜くことの素晴らしさを先生から教わったと思う。

先生、ありがとうございました。安らかにお眠りください。

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 立花ゼミ
立花先生とのお別れ

ただいま県議会のメインである、質疑が始まっています。6月30日まで、議会どっぷりな日が続きます。

いろいろ報告したいことが多過ぎて、整理できていませんが…
一番インパクトだったのは、立花隆さんが亡くなったことです。
https://tachibana.rip/announcement.pdf

●「調べて書く」貫いた立花隆さん 知の巨人が残した警句
https://www.asahi.com/articles/ASP6R35RBP6RUCLV001.html

わたしはこの記事にあるように、東大の学生だったころに「調べて書く」ゼミに参加し、立花先生に薫陶を頂きました。

私の東大時代の学生生活を充実したものにしてくれたのは、この立花ゼミでした。
サークルのようなもので、いまでもかつてのメンバーとは絆を感じます。

立花先生は、仕事では厳しいひとでしたが、私たち学生には、常にやさしく、明るい方でした。
一流の人のあり方を、教えてもらった人でした。
わたしのHPのプロフィールにも、そのことを書きました。
http://tanuma.info/profile2/

私は学生時代から、日本の歴史にたいする自虐史観から脱却し、保守的な言動をしていましたので、立花先生とはよく論争になりました。

代々木のオリンピックセンターで合宿をしたときも、何かで議論していたら、
「右翼にも、話していて気持ちのいい右翼と気持ちの悪い右翼がいる。あなたは気持ちのいい右翼だね」と言われ、
「先生わたしは右翼ではありません!(苦笑)」と言い返したのを覚えています。

その他、たくさんの思い出があります…
学生何人かで、徹夜で朝まで、ネコビルだったでしょうか、編集作業をしていたとき、先生が急に「築地に寿司を食いに行こう」と言い出し、築地場内のお寿司屋に連れて行ってもらいました。確かひとり3000円以上もしたのに、全部ご馳走になったと思います。とことん学生にやさしい方でした。

寿司も美味しかったですが、私は初めての築地体験で、築地の活力に驚き、いろいろなお店や卸の軒先を覗きながら、私がボソッと「下手な本を読むよりずっと世の中がわかりますね」と言ったら、先生が急に振り返り、すごくうれしそうな顔で「そうだろう!」と言ってきました。人間好きな方でした。

そうだ!思い出した、築地に行くときもひどい目にあいました。
立花さんの6人乗りくらいの車で行くこととなり、なぜか運転手が私となりました。私もそんな大きな車は初めてだし、場所も全然わからないのですが、おそるおそる発進すると…
なんと道案内して欲しい立花さんも、助けて欲しい仲間の学生達も、全員いびきをかいて眠っちまった! 起こしても起きないし!コラー!!(怒)
ひとり涙を流しながら、あちこち散々ウロウロして、なんとか築地に着いたのでした…寿司のご馳走はそのお詫びだったかな?
まあいつもこんな感じの、いきあたりばったり、滅茶苦茶なゼミであり、立花先生もノリで生きてるのでは?と何度も思いましたが、何があるかわからない面白さにあふれた日々でした。多分ゼミ第一期生はみな共感してくれると思います。

先生は本当に子供のような、純真でシャイな方で、そして学生を愛してくれた方でした。
「知の巨人」などと言われていますが、我々ゼミ生にとっては本当に気さくな、好奇心の塊の人で、「それは何?」と聞いてくる、いつも楽しそうな人でした。
そのスタイルから、楽しいもの、ことは、遠慮せずドンドン追いかければいいんだ、と、心の若返りをさせてもらいました。それがどれだけ、その後に役に立ったか…

思想信条は違いますが、私にとっては間違いなく「先生」でした。
20年以上経ったいまでも、先生のニコニコした笑顔を思い出すと、目頭が熱くなります…

最近はなかなかお会いする機会がなく、2年前の県議選のときに、ご支援お願いのお電話をしたのが最後となってしまいました(ご支援の許可も難航しました(苦笑))。
当選報告かねて、もっと早くお会いしに行っておけばよかった。痛恨のミスでした。
本当に悔やまれます…

先生は「葬式にも墓にも関心がない」そうですが…
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f9310b8c426c498869894a47df15bb30b78d70f

いま先生は天国?あの世?魂になった?どこでどうなったのかなってないのか、わかりませんが、気分屋で好奇心の塊の立花先生ですから、あちこちプラプラされていることと思います(^^)
いつまでも、あのニコニコした顔で、私たちを見守っていてください。

残された私たちは、いつまでも心の中で、先生を忘れず、活躍することで、恩返しをしたいです。

ご冥福を心からお祈り申し上げます。

東京大学 第一期立花隆ゼミ
物事に対する姿勢を学ばせて頂きました

1996年。私が階段教室で行われた立花先生の講義に参加したのは、友人から「タチバナタカシが講義するらしい。行こうぜ。」という誘いがあったからでした。数学物理バカだった私に取って、一般書や科学書を読むことは日常からかけ離れており、名前は存じていても、一冊も読んだことはなく、正直「友達に誘われて」講義室に向かいました。 初回の講義。身体を斜めに傾けながら話す姿に感じた「何か分からないけど面白い」。それに惹かれて参加した授業。図書館に籠もって書いて、ありがたくも授業中「面白い」と取り上げて頂いたレポート。それに続いて参加した「調べて書く、発信する」のゼミ。「二十歳のころ」に至るブレスト。それらの課程を、暖かく見つめ、導いてくださっていた立花先生の瞳。今になっても、昨日のことのように蘇ります。 ゼミでは、立花先生と同期のメンバーの会話には全くついていけず、落ちこぼれでした。しかし、立花先生と、同期のみんなが作る空間が楽しく、ゼミ、ゼミの後の先端研の部屋での会話、その後の立花先生の書斎で本に埋もれつつの朝までの会話、部屋で味わった本の匂い、ワインの香り、大きなスピーカー、明け方に「これからNHKの収録だから!」って去っていく立花先生。すべての思い出が今の自分を作っていると感じます。 立花先生の「調べて」「書く」「発信する」ということの徹底さは、その後の自分に重要でした。「新しい分野を知るには、その分野の辞書を読もう。」と言われた際には「辞書を読むとは?」と思いましたが、その後、人工知能・生命科学・医学と様々な分野に携わることになった自分には、分野を超える手段となっており、重要な一言でした。また研究に携わるようになった後は「書く」ことの重要性を噛みしめる日々が続きました。全ては、ゼミでの経験が支えになりました。 同時に、調べたた上で、徹底的にレスペクトを持って人の話を聞くということも、立花先生に教えて頂きました。研究者になり、経営者になり、「発信する」ことが職業になりました。ついついおごった心が出てきそうになることもありますが、人も自然科学も、知れば知るほど知らないことが出てくる世界であり、すべてに対してレスペクトを持って、話を聞くということを意識するのは、立花先生の姿を拝見していたからです。データ解析という仕事を、立花ゼミ卒業後の20年以上一貫しておこなっている私ですが、データの声を聞き、それを解析する姿勢は、立花先生の物事に対する真摯な姿勢に影響されているのだど、今回の件があって、改めて感じました。 とりとめもない駄文になりました。まずは、ゆっくりお休みください。どこかで、また、最近の科学の新しい発見を肴に、みんなと一緒にワインを飲める日を楽しみにしています。

東京大学 第一期立花隆ゼミ
120教室に向かって

大学に入学して貰ったシラバスの中に立花先生の名前を見つけて、これは絶対に受講しないといけない、と水曜日の18時、駒場1号館の120教室(だったっけ?)に向かった。年度はじめの授業ということもあって、教室は満員。講義を始めた立花先生は、黒板に一つ単語を書くと、その周りにぐるぐると白チョークで弧を描きながら、関係があるのかないのか、遽にわからない話題を次々と、淀みなく繰り出していく。長い講義が着地しようというとき、ようやくあちこちに飛んでいた話の繋がりがわかってくるのだけれど、先生はまだ謎の一端に触れただけというように、今日のところはまあ、こんなところで、と話を締めくくる。
教室には何のことやら分からないと退屈した顔の学生と、何のことやら分からないが目を輝かせた学生がいて、概ね後者がゼミ生になった。先生が話した講義の内容はもう忘れてしまったけれど、あんなにわくわくしていた時間は他に思い出せない。頭の整理が追いついていかないまま、広大な未知の世界の突端に連れてこられたようで、圧倒された。

一度、立花先生に怒られたことがある。取材依頼のメールの文面についてだった。そのときの「知りたいという気持ちが足りないのではないか。」という指摘は、当時の僕にとって図星であったという以上に、その後の大学、社会での人生の中で繰り返し立ち返っている問いだ。
立花先生は取材のとき、相手がその研究分野のトップランナーの科学者であろうと、ホロコーストの生存者であろうと、臆することなく、妥協することなく質問をぶつけていたが、そのときの表情は、大学では見せないような、ほころんだ笑顔だったりした。「知りたい」という好奇心を満たすため足を踏み出した先に、取材がある。それは当たり前のことかもしれないが、その気持ちを強く持ち続けることに僕はずっと難儀していた。先生のように貪欲に学び続けなければ、「知りたい」を維持することはできないと、大学を出て、自ら学ばなければならなくなった今更ながら感じる。

授業でゼミ生にエッセーが募集されたとき、その中で「僕は冷戦が終わった後に生まれた世代だ」という一文を書いたら、立花先生はえらく驚かれていた。先生は気づかぬ間に時代が変わってしまった、というふうに受け止められていたけれど、あれから10年経って、先生は今の時代をどのように見ていたのだろう。
思い出すにつれ、いま再び、先生の講義を受けたかったという思いが去来する。

立花先生、本当にありがとうございました。

東京大学 第三期立花隆ゼミ
未知への情熱と、ドライな合理主義と

立花さんといえば、好奇心の塊で、権威が嫌い。フットワークが軽く、どこへでも本ではち切れそうなキャリーバッグを引いてひょいひょい歩いていく、そんな人だった。

私が同行した取材で移動距離が長かったのはJ-PARCと松代大本営跡で、どちらも朝から晩まで歩き回りながらの取材だったが、最初から最後まで自分の荷物は自分で持っていたのをよく覚えている。

一方で、自分よりも上手くできる人がいるなら人に頼ることにも躊躇はなかった。例えば、写真撮影や PC 操作などは、中途半端に指示を与えたりせず、全面的にゼミ生など、周囲の人に任せていた。その辺りにはプロとしてのドライな割り切りがあったように思う。

「権威嫌い」といえば、学生に向かって繰り返し「若者はオトナをバカにするくらいでちょうどいい」という趣旨の発言をしていた。あれは若者への激励だったのだと思う。いつも若者の可能性というものを信じていたし、だからこそ「そろそろ人生の残り時間を計算して、あと何冊本が書けるか考えている」と繰り返しながらも、随分と学生と過ごすのに時間を割いてくださったのだと思う。

立花さんの好奇心のすさまじさは、短い時間であっても行動を共にした人なら誰しも覚えているだろう。そこには善悪やタブーや倫理や分野の境界線はなく、ただひたすら知りたい・理解したいというエネルギーがあった。

立花さんの好奇心の対象はいつも、ミクロであれマクロであれ、自然であれ人為であれ、一人の人間の理解力の枠を超えたもの、圧倒的なもの、立花さんの表現を借りれば「わけのわからないもの」だったように思う。「わけがわからないものなんですね!」と語る立花さんの目はいつも輝いていた。

そして忘れられないと言えば猫ビルである。書斎と書庫と秘密基地を足して割らない建物とでもいうべきか。比喩ではなく、本の隙間に人間がいる。立花隆という人物の好奇心と思考が脳から溢れ出して物質化したような、秩序と混沌がせめぎあう独特の空間だった。

あの空間の主がもういない、ということがまだ腑に落ちていませんが「人間が死んだら無です。その先には何もない」と常々断言していた立花さんが聞いたらバッサリ一刀両断されるでしょう。なので、冥福を祈るのではなくお礼を述べて終わりたいと思います。一介の学生では会えない人/行けない場所にご一緒させていただきました。本当にありがとうございました。

東京大学 第三期立花隆ゼミ
立花先生との時間

大学1年のとき、駒場で、立花先生の応用倫理学の講義を受講しました。
大教室がいつも一杯で、毎回、知的刺激に溢れた講義でした。

立花ゼミの会合にも、一度だけ顔を出しました。
二十歳の頃、の企画が生まれた会議でした。

その後、番組制作会社に就職して、立花ゼミ生でした!と、嘘をついて、
猫ビルでインタビューを撮らせていただきました。
締め切りをどんなに抱えていても、ゼミ生には甘いのよ、という菊入さんのお言葉を思い出します。。

取材旅行に同行させていただいて、
夜に二人で居酒屋に入り、しばらくメニューを眺めていた先生が、
ここは高いんで出ます!、と店員に高らかに告げて、
ホテルの部屋でコンビニの安ワインで夜通しお話した時間、一番の思い出です。

どれも楽しく光栄な時間ばかりでした。

教わったこと、忘れません。
立花先生、ありがとうございました。

東京大学 第一期立花隆ゼミ
調べて書く、発信する

東京大学教養学部学生だったころに立花先生の第一期のゼミを取っていました。「調べて書く、発信する」というテーマでした。学生が自分の興味のあるテーマを選び、その第一人者にインタビューし、それを文章にまとめてインターネットで発信するという形式でした。

私が入学したのは1997年で、東京大学に情報処理の授業や学生用のコンピュータが導入されて数年しかたっていなかった時期でした。私自身はインターネットに触れたのが大学入学後でしたし、私が高校生のときにはポケベルといういまでは化石のような通信機器が存在していました。同期にはネットベンチャーに就職していくやつが何人もいました。そういう時代でした。

立花ゼミではインターネットでの発信を重要視していました。私自身も、そしておそらくおおくの同級生が、若さもあり、インターネットに没頭しました。東大の情報処理棟は夜になると閉まってしまうので、別の管理人がいない棟のコンピュータールームに閉館前に入館して朝まで調べものをしたりレポートを書いたりする(というか遊んでいただけですね)ことが多かったです。

インターネット黎明期でしたが、私自身は生身の人間に会いに行くというのが最も貴重な体験であったと思っています。立花ゼミの運営は学生が主体ですが、その中でももっともアクティブであったのは一年上の先輩方でした。この先輩たちが「二十歳のころ」を作成しています。私は先輩方の完全なフォロワーでした。この「二十歳のころ」は有名な第一人者や無名のかたに、二十歳前後の学生がインタビューし、二十歳のころ彼らは何を考えどう過ごしていたかを聞くという企画でした。このシリーズはほんとうに自分の人生に影響を与えたと思っています。ゼミで作った小冊子をなんどもなんども読みました。本は最終的にまとめられ、新潮社から出版されています。これほどのものを書いたのがほぼ自分と同年代の若造だということがショックでした。

立花先生の講義内容はあまり覚えていません(すみません!)。立花先生とゼミのあとに飲みに行ったり、松田先生の研究室で実験(たしかコンドームを伸ばした上に筋肉細胞を培養していたような、、、記憶違いだったらすみません)の話を聞いたり、ネコビルの膨大な蔵書を拝見したりしたのが印象に残っています。ネコビルの図書館並みの蔵書を見て、「調べる」とはこういうことかと驚いたのを今でも鮮明に覚えています。立花ゼミ生は議論好きが多く、同年代がしっかりと自分の意見を持ち、発信までしているのをみてコンプレックスを感じてばかりでした。私自身は当時あまり議論に参加できませんでしたし、議論はいまでも苦手です。ただ立花先生が科学は面白いと思っていてそれを語りたいのはよくわかりました。好きなことを徹底的に調べて、発信するということはどういうことかを、若い時に肌で感じることができラッキーだったと思います。そして偉大なる先輩や同期から刺激を受けることができたのは代えがたい経験でした。振り返ってみるとそのような知的刺激は年齢が上がるにつれ得られなくなってきています。立花先生は別の講義で「猿の研究から、霊長類は同世代から最も影響を受ける」ということをおっしゃっていました。親や教師ではなく、同世代が一番影響を与えるということです。立花ゼミはそういうところでした。今の学生たちも(コロナで直接会うのが難しいのは大変残念な環境だと思いますが)切磋琢磨し合う環境を自分で追い求めていってほしいと思います。

当時二十歳くらいで何者でもなく、本当に真剣に人生や社会のことを考え何者かになろうと模索していた時期に、立花先生にお会いできて本当に感謝しております。私自身は東大ではバイオ系の研究者を目指していましたが、その後医学部に編入学し、今は脳神経外科医として働いています。立花先生の脳関連の講義が進路に影響を与えたのかはよくわかりません。若いときにどんなひとに出会えるかはそのひとの後の運命を左右すると思います。私は立花先生にお会いできて本当に幸運でした。

立花隆先生の御冥福をお祈り申し上げます。

東京大学 第一期立花隆ゼミ
好奇心のよろこび

心底面白そうに「へぇ!」と驚いて笑う、立花先生の表情が忘れられない。

東大駒場キャンパスで毎週水曜、先生を囲んでゼミ生たちが集まった。授業ではゼミ生がそれぞれアイデアを出し合い、好奇心にしたがって企画を進めた。

第3期ゼミ「見聞伝」が事実上スタートした、2008年4月16日の議事録が手元にある。初回のブレインストーミングでは「脳研究最前線」「教育」「全共闘の歴史」「生命の起源」など69個のアイデアがゼミ生から出た。知的熱量にあふれた空間で、本当に素敵な仲間たちと出会うことができた。

先生はいつも、琴線に触れるテーマに話題が移ると「あのー、それはね」と言っておもむろに立ち上がり、お話をしてくださった。目を輝かせて「世界はこんなに面白いのだ」と教えてくれていた。1週間の中で水曜のこの時間は、他のなによりも豊かな時間だった。

ホワイトボードに黒いマーカーペンを押し付けてぐりぐり、と板書される姿が今も目に浮かぶ。
先生の口から次々と飛び出す古今東西の人名や地名。しかし白板の上には、それとは似ても似つかぬ線(ときに円)が残されていく。不運にも遅れて教室に入ってきたゼミ生は、解読不能な板書を前に「一体何の話だったのか……」とただ途方にくれるのだった。うねうねしたあの線や円は、ほとばしる知的エネルギーの痕跡だったのだと今も思う。

ゼミは議論が白熱して時間通りに終わることはなく、外に出る頃には日が落ちていることもしばしばだった。
トートバッグに新聞や読みさしの本を入れ、ゼミ生たちに囲まれながら、すっかり暗くなった駒場キャンパスを歩く先生の姿は穏やかで、とてもカッコよかった。

私は中学2年生の時に『臨死体験』を読み、衝撃を受けた。脳科学やオカルト、宗教、文化人類学を垣根なく行き来し、生命と意識の不思議さと面白さを教えてくれた本だ。『ぼくはこんな本を読んできた』収録の「私の読書日記」をガイドブック代わりに、地元の図書館に通うのが心底楽しみになった。自分が東大に入りたいと思ったのも、仏文科に進学したのも、立花先生の存在があったからこそだった。

私は今、通信社で記者の仕事をしている。地方支局では事件や事故を取材し、今は東京で政治の現場を歩いている。人間社会ではとにかくいろんなことが起きる。締め切りに追われる慌ただしい日々の中で、立花ゼミで過ごした時間を振り返ると、心に再び火がともる。見て聞いて書く。そして何より、面白がる。この基本姿勢を教えてもらったのは駒場での2年間だった。

立花先生。あなたのいない世界は、正直とてもさみしいです。
ですが、好奇心のよろこびの素晴らしさを私たちに残してくれました。先生が残した種は、これから先もあちこちで芽吹くと思います。21世紀は、遺伝工学もAIもナノテクノロジーも、社会システムも大きく変化するでしょう。きっと、とても面白いですよ。私たちが代わりに見届けて、大いに味わいます。

本当にありがとうございました。

東京大学 第三期立花隆ゼミ

駒場時代の「調べて書く、発信する」ゼミ。その3つの行為を、客観性を保ちつつ、自分が満足できるクオリティで、かつ人に害を与えずにやることの難しさを痛感する社会人20年目です。僕が入省したての2000年4月、初任公務員研修で「あなたたち、みんなバカなんだよ」と、数百人の新人官僚たちに語りかけられた先生の言葉が、今も忘れられません。本当にありがとうございました。先生の面影を偲んで、先端研と猫ビルに久しぶりに行くつもりです。

東京大学 第一期立花隆ゼミ

大学に入学したてで知り合いもほとんどいなかった頃、私は「せっかく東大に入ったのだから、何か貴重な体験がしたい」という勢い余って立花隆ゼミに入りました。ゼミとしての単位がもらえた最後の年でした。

自分の学力にも知識にも「アカデミックさ」にもまるっきり自信がなかった私は、ほとんど発言もせず、ただただゼミ生たちの話を聞いて圧倒されているばかりだったと思います。ゼミは学部の授業では学ばないような多分野におよぶ話題にあふれ、その場にいるだけで途方もない知の海に浸っているような感覚がありました。立花先生は、それを隅の席で見守り、ヒントをそっと投げてくださるような印象でした。

立花先生と直接お話したことは挨拶ほどしかありませんが、アウシュヴィッツの見学にも一緒に行った思い出があります。
分野も年齢も場所も超えたたくさんの出会いに恵まれたのは、立花先生と立花ゼミに迎えていただけたおかげです。
そして、どんなことでも極めれば「アカデミック」になりうるということを、立花ゼミは教えてくれました。
「見聞伝」という活動名通り、見て、聞いて、伝えるということに真摯に向き合い試行錯誤すること。たとえば、誰かに会いに行くときはその人の著作をすべてチェックするべし、という極意。それは、私自身のものを書く仕事に対する姿勢の原点となっています。

本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

東京大学 第三期立花隆ゼミ

僕は、
足の病気で入院していた大学一年生の夏、
ここぞとばかりに立花先生の本を読み漁りました。
特に、利根川進さんへの超ロングインタビュー『精神と物質』と、
宇宙飛行士の内的体験を深く洞察した『宇宙からの帰還』の読書体験は、
今も自らの奥底に、ある不思議なエネルギーを帯びて、残っているように感じます。

その後、大学院の副専攻で初めて対面した時は、胸が高鳴りました。
しゃがれ声で、髪が不揃いで、いつも身体を斜めにしていた立花先生。
飄々とされながらもいつも眼光は鋭くて。
鋭さの向こうに茶目っ気や優しさを感じたとき、僕は安心できました。

生命科学の研究者になるか、なれるか。あるいは、大学の外に飛び出すか。
迷いに迷いに迷っていた20代の半ば、
立花隆の広くて大きい知性に触れたことは、
僕にとってかけがえのない幸運だったと思います。

猫ビルの向かいの事務所で、学生たちで赤ワインをご馳走になった夜。
僕はずっと聞いてみたかったことを聞きました。
「先生は、なぜそんなに膨大なものを読み、膨大なものを書き続けられるんですか?」と。
「それは、誰しも同じでしょう。『私』が知りたいからじゃないかな」。

当時の僕にとっては、不意の答えだったと同時に、
そうかそれでいいのか…と、なぜだか背中を押された思いでした。

僕は今、映像を作る仕事をしています。
いつかそのうち、
先生に「ぜひ観てもらいたいです」と、
胸を張って言えるような作品ができたらば、
空に向かって、お知らせします。

東京大学大学院 科学技術インタープリター養成プログラム
結婚式のスピーチ

ゼミ長やってたK君の結婚式のスピーチ、たしか前半はK君の活躍を称える話ししてたと思うんですが、徐々に話がそれて、ご自身の結婚式の話に。こんな立派な式はやらなくて、レストランでパーティーにしたんだとおっしゃられて、最後に、まぁ離婚したけどねと話しを締められてゼミ生みんなで苦笑した思い出が。記憶に強く残るのは変な話ばかりです。あとは、講義の時間大半使って数ページしか進まなかったレクチャーで、時間が足りないな…とおっしゃりながらプレビュー画面に出たページ数が100枚超えていて、聴衆がどよめいた回があったのも記憶に残ってます。
とにかく、飾らない方で、今聞きたいこと、今伝えたいこと、思ったことをどんどん話される、そして躊躇なく行動される方で大いに学ばせていただきました。ご冥福をお祈りします。

東京大学 第二期立花隆ゼミ
立花先生との出会い

訃報を6月23日の未明に目にして、その日はほぼ一日立花さんのことを考えていた。僕が立花さんと最初にお会いしてから、彼此15年が過ぎていた。「知の巨人」と称される立花さんだが、皆さんはどんな風に思い浮かべるだろうか。実際に会ってみるとぜんぜん威張っていない。学生でも気軽に話してくれた。でも、話についていけないときは、「えっ、あなたそんなことも知らないの?」と驚かれてしまう。

2005年冬学期に東大駒場の学生だった当時の僕は二十歳で、「あの伝説の立花ゼミが再始動する」と知って、全学ゼミナール「先端研究現場へ行こう」を受講したのは本当に幸運だった。正直、立花隆という人物の名前だけ聞いたことがあった程度だった。立花さんの話はとにかく面白い。本人が楽しいと心から思っているから、聴衆もいっしょに感化され引き込まれるのだろう。それは上京して1年以上が経ち、教養学部というモラトリアムをなんとなく過ごしていた僕のありあまった知的好奇心を十分なほどに満たすものだった。当時の講義の映像が残っていたら、書籍もいいが、ぜひそのままアーカイブ化してほしいと願う。立花さんに同行して数々の研究所に行脚し、研究者にインタビューする様子をみた。事前に膨大な準備をされているので、話を聞きだすのが本当に上手い。記憶力も尋常でない。「科学の真の最先端は研究者達自身の頭の中にある」と仰っていたのが印象的だ。

訃報を伝えるTVのニュースで立花さんの若い時の様子が映った。今の自分とほぼ同年齢で世の中に知られる大きな仕事を成して、いままでずっと最前線で取材や執筆、講義・ゼミなど多岐にわたって活躍された立花さんは、知的で躍動感にあふれていた。僕が知っている立花さんの活動は断片的でしかない。立花さんの数々の著作が並ぶ小石川の猫ビルの書棚を拝見していつもそう感じた。こんな素敵な大人にはもう二度と出会えないのだろう。「宇宙とは何か。人間とは何か」を探究する立花さんに憧れた。そういう興味を抱きながら、僕は今、医師として救急医療の道を進んでいる。

立花さん、本当にありがとうございました。

東京大学 第二期立花隆ゼミ
良いものは良い、ダメなものはダメ

立花さんには、「良いものは良い、ダメなものはダメ」という態度で何事にも臨まなければならないということを教えられた気がします。

「人生の残り時間がなくなってきている」とおっしゃりながらも、駒場に毎週いらっしゃり、ニコニコとした笑顔でゼミの指導にあたってくださっていたときのこと、今でもはっきりと思い出します。全共闘をテーマにしたシンポジウムを駒場祭で行い、前日その準備で、ゼミ生たちと事務所に泊まり込んで徹夜したことなど、まさに青春の思い出です。テレビ局に就職した今、ゼミで行っていたような取材活動が生業になっているというのが、何とも不思議な感じです。

就職してからのこと。赴任先の広島で作ったニュースの特集番組の録画DVDを立花さんにお送りしたことがありました。その後、夏休みになって、休暇を取ってアウシュビッツを訪問していたとき、突然、携帯が鳴りました。立花さんからでした。立花さんは番組を見てくれていて、2本送ったうち「1本は良かったけど、1本は全然ダメです、ひどい出来でした」とおっしゃいました。追加して「あなたは上から目線なところがあるから気を付けた方がいい。テレビ局員というのはチームプレーなのだから」ともおっしゃって、用件だけ言ってすぐに電話は切られました。訪問先のポーランドで突然受けた電話に、ただ唖然としてしまいました。
それから、かなり時間が経ったときのこと。また電話が鳴りました。立花さんからでした。自分の作った番組が全国放送で流れたのですが、たまたま立花さんはそれをご覧になっていて、作り手が私だと分かって電話をくれたのでした。今度は合格点。立花さんは「自分も知らなかったヒロシマの歴史を知れた」と褒めてくれました。偶然のことにウルっとなりながら、私はやっと自分の仕事に自信を持てた気がしました。その時に聞いた立花さんの声が、私にとっては最後になりました。

良いものは良い、ダメなものはダメ、そして面白いものは面白いと言えることが、ジャーナリズムなのだと思います。一つ一つのテーマを通じて教えられ育まれた感性が、今、仕事で毎日生かされています。

東京大学 第三期立花隆ゼミ
高校の大先輩

大学内を歩いていると、あの人は立花隆さんではないかと思い声をかけました。
「すみません、立花隆さんですか」
「はい、そうですけど」
立花先生と私との出会いは、その時でした。

出身高校の大先輩でもあった立花先生。高校の授業でも先生の書籍が教材となっていました。
そんな先生が立教大学院の教授になっていたとは知らなかったです。
学部生でも授業を受けられるという事で、私は授業に参加しました。
とにかく、先生の授業はわかりやすくて、面白かったです。
そして、いつも授業の時間が足りなく、1つ質問すると、先生の宇宙ともいえる頭の中から、質問以上の答えが返ってきました。
先生とは一問一答が難しい、そんな印象でした。
常に探究心を持っていて、興味を持った事があると、学生にでもなんでも聞いてくる、その時の顔は少年のようでした。

また、初めて猫ビルを訪ねた時の、ワクワクドキドキ、そして恐怖(地震がきたら、本にのまれてしまう)は今でも鮮明に覚えています。

先生からは、興味を持って学び続ける事が、人生を豊かにするということを学びました。

先生のニコニコとした笑顔が大好きでした。
ありがとうございました。

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科にてお世話になりました。
立教での通称「立花ゼミ」のHPの作成と管理を担当しておりました。一時ドメイン消失に伴って消え去っていたものが、東大「立花ゼミ」の皆さんによってサルベージされ、復活したことに感謝です。東大の皆さん、いつも任せきりで申し訳ないです。
また立教での「立花ゼミ」の活動の一部が、文藝春秋の「『戦争』を語る」という文庫本で2016年に出版されました。少しでも関われたことを嬉しく思います。

今、私は立教大学で教員を勤めております。
かつて先生に学ばせていただいた同じ場所で、学生の皆さんと対峙しながら、立花先生の言葉を思い返します。
自分で考えるとはどういうことなのか。世の中で起きた事象をどう理解するのか。何を疑い何を信じるか。
その判断を支える膨大な見識。新たな情報を得る原動力である好奇心。固定概念に囚われない柔軟性(あるいは天邪鬼な遊び心でしょうか)。
それらをどうやって獲得し、醸成し、発揮するか。
明確な答えなどないことは分かっておりますが、いかに自分の中で活かしていくか。いかに次の世代を担う学生の皆さんに伝えるか。悩み深い限りです。

最後にお会いしてから、もう何年も過ぎてしまいました。
あの時は、猫ビルにも寄らせていただき、左右から迫る蔵書の壁の間で様々お話させていただきました。
また再びお伺いし、お話を伺う機会があると勝手に信じておりましたが、叶いませんでした。

いや。そうか。「死後の世界」。今こそ先生は探索されているのでしょうか?
またいずれお会いできるのであれば、悲しむことはないのかもしれません。

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 立花ゼミ
立花さんのこと

私はあまり仕事をしないゼミ生でしたが、ゼミの前後や飲み会や仕事手伝いの折に立花さんとよくお話させていただき、たくさんの刺激を受けました。学生に対峙する立花さんは立場や年齢と無関係に対等なふるまいで、自分の知らないことに少しでも詳しそうなゼミ生を見つけると目を輝かせながら質問攻めにし、本や記事などを紹介されると次会うまでに本当にそれを読まれ、感想を言われるような方でした。将来の目標やビジョンについて少し語ることがあると身を乗り出して聞かれ、急に自分がインタビューされているような気分になって高揚した学生は他にもいたのではないかと思います。

知的好奇心もさることながら、人のことも驚くほどよく観察されており、ときに普通の大学教員以上に学生へコミットし、ゼミ生に対する責任感や愛情が垣間見えることも多くありました。立花さんがホワイトボードを使ってゼミの歴史を振り返るお話をされた際に、ローマ帝国の時期区分の説明(たしか?)のために描かれた長方形が、音信不通になったゼミ生の安否確認のため自ら訪ねて行かれたアパートの間取りの説明にそのまま使われていたのが印象的でした。

自由な知性に裏付けされた人間への興味のまなざしを、取材対象だけでなく学生にまで向けられていた立花さんは、「教育」がお嫌いだったご本人の意に反してたくさんの教え子を生まれ、多大な影響を与えられました。私もその生徒の一人で、あの時立花さんに話した目標に向けて、今も研究を続けています。本当にありがとうございました。

東京大学 第二期立花隆ゼミ

立教セカンドステージ大学での立花先生の講義を控え、灼熱の太陽の下、先生が現れた。まるで探検隊のような装いで、とにかく暑い日だった。お手伝い係の私は先生の荷物を運び、エレベーターで講義の教室までご案内、そのエレベーターの中で冷たいタオルと水をさっと手渡した。僅か数階のその時間の長いこと、長いこと、今、天気の話をしてはダメだ、きっと先生が一番嫌がられることに違いない、と私が黙っていると、タオルで顔を拭きながら先生がおっしゃった、「今日は暑いね」と。先生も天気の話をされるのだと思った瞬間だった。毎週講義が終わると駅まで先生をお見送りしたこともしばしばあった。ある日の講義で、日本の製紙がいかに優れているかに触れられた日、帰り道は生理用ナプキンの話になった。「僕の母親の時代はね・・・」と詳しく教えて下さり、「へぇーそうだったのですか、昔は大変だったのですね」と私。駅までのナプキン談義、まるで科学的講義の延長のようだった。知の巨人、その幅広さを又知った日だった。

講義といえば、長崎大学特別講義での先生から学生さん達へのメッセージが今も忘れられない。「すべてのプロセスにおいて、いかに他の人間を巻き込んでやりたい方向に全体をもっていくか、それは熱意です、熱意と言葉の力、言葉の力はものすごく大きい、言葉をよりいかすためには熱をもって語ることが必要です」

立花先生!熱い講義の数々を本当に有難うございました。

立教セカンドステージ大学講義「現代史の中の自分史」立花隆ゼミ
叡智を結集して「戦争の記憶」を記録させた先生

立花先生に、心より哀悼を申し上げます。

私は今から11年前の2010年、
立教大学大学院の院ゼミで立花先生にお世話になりました。

同郷(長崎県)ということもあり、
大変かわいがっていただきました。

ゼミの総合テーマは、「薄れつつある戦争の記憶を語り継ぐ」。
先生は、ジャーナリストとしての最後の仕事として、
「『戦争の記憶』についてのデジタル・アーカイヴを構築したい」
とおっしゃっておりました。

ほとんどが戦後生まれのゼミ生でしたが、
戦争遺跡、戦争資料館を訪ねたり、
長崎に行ったり、アウシュヴィッツに行ったりと、
「戦争を語り継ぐ」ためのの準備を、
院ゼミの皆で分担していっていきました。

ゼミ生は、ほとんどが社会人ということもあり、
それぞれの専門領域、得意分野があり、
興味深い面々が集まっていました。

IT分野の専門家がゼミ生にいらっしゃり、
ウェブサイトを構築し、ブログを統合し、
更新していくことでゼミを進めました。

出版社に勤めていた私は、
立花先生自身の戦争体験(北京からの引き揚げ)を編集する作業を引き受け、
DTP組版をするなどして、具体的な形になったことが、
大変いい思い出になっております。 
ゼミ生の努力の結晶です。
よろしければお読みいただけると嬉しく思います。

↓ 立花隆著『「戦争」を語る』(文藝春秋、2016年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4163904905/

立花先生は、
アカデミズムとジャーナリズム、
領域横断、知の総合の人だったと思います。

ご両親がクリスチャンであられたことも印象的です。
立花先生は、身代わりの死を遂げたコルベ神父に関心を持っておられ、
長崎の聖マキシミリアノ・コルベ記念館(聖母の騎士社内)にも、
足を運ばれていました。

「戦争を語り継ぐ」試み、継承していこうと思います。
安らかにお休みください。

本当にありがとうございました。

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 立花ゼミ
立花先生、ありがとうございました。

私が入学した年度に、立花先生が特任教授として教鞭に立つことになり、学部上がりで20代だった私は、先生の功績を全然知らなかったのに、有名な先生の授業に出てみたいというミーハーな気持ちで、ゼミを受講しました。

ホームページを作るというコンセプトではじまった立教大学21世紀社会デザイン研究科の立花ゼミでしたが、コンセプト以外は自由で、好き勝手やらせて頂きました。

当時先生は大きく2つ講義を担当されてましたが、知の巨人としての一面はもう一方の講義で、ゼミの方は先生の好奇心の赴くまま、立花先生のネームバリューを自由に使っていいから、新しいことをどんどんやってくれと言わんばかりで、
先生を退屈させまいと、ゼミ生(年齢は20代から50代と幅広い)は、様々な切り口のブログを開設し、どんなに内容でも興味を示していただき、授業後の飲み会含めて毎週大人の社交場として、濃い時間でした。

すごい経験を持ったゼミ生が集まったのに、ホームページ作成に関してだけは、全員素人で、ゼミ長だった私は、ホームページ公開前夜は猫ビルで徹夜で作業やったことが懐かしいです。

思い出話はつきないものですが、先生の笑顔は今でも忘れられません。誰にでも分け隔てなく接していただき、知的好奇心をくすぐってくださった先生が大好きでした。
大人になって、またお会いしたかったです。

心よりお悔やみ申し上げます。安らかにお休みください。

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 立花ゼミ

私は31歳のときに立教大学へ入学して『大学と現代社会』で立花先生にお会いしました。立花先生が「Googleの検索の仕方を大学で教えるべき」と、話されていたのが印象的です。大学以外の場でどのように学ぶかということに着目しておられた先生は、それと合わせて体系的な知識の重要さも説いていました。分野を問わず縦横無尽な知識の広がりを前にして、学ぶことがますます楽しくなりました。ある日の課題は「本屋へ行き『航海誌』を作りなさい」というもので、おかげで、ジュンク堂のただの本売り場が、航海士にとっての大海原と錯覚するほどでした。レポートに関しては誤字脱字の指摘が執拗なもので、一人一人の修正はプロジェクターで公開され、笑われました。ククッと、先生の温かく厳しいご指摘は記憶に鮮烈に残っています。猫ビルで取材をさせていただいた冊子で、誤字をだしてしまったことは悔やまれました。最後の授業で、有志とともに花束をお渡しできたことが良かったです。
本当に密度の濃い授業で、好奇心が刺激されました。立花先生の授業は、当時31歳の自分にとって、一生、忘れられない思い出となりました。

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ
立花隆、好奇心の炎

自分は何も知らないし、何も読んじゃいない!立花先生とご一緒させていただくたび、そう叫びたくなりました。大学を休学した23歳の私を助手として受け入れて下さり、先生と多くの時間を過ごさせていただいたあの『青春漂流』の時間がなければ、今の私は決してありません。徹底的に調べること。ひとの声を聞き、ひとに伝えること。指揮者を職とするようになった今、先生のもとで修行させて頂いたことはそのまま日々に活きています。

助手時代、先生と過ごす時間は真剣勝負でした。少し仮眠するね、といって机に突っ伏したあと、朝三時に唐突に起きて原稿用紙を埋める先生。はいこれ、と渡された原稿を読んでみると、机に積み上がっていた何十冊もの文献が見事にそこに集約されていて、どうしてこんなことが出来るんだろうと呆気に取られたことをよく覚えています。

一方で、先生は大変な速筆だったこともあり、原稿にときどき解読不能な部分があったのですが、それを「ここがどうしても読めません……」と持っていくと、「知らないから読めないんだよ」と言われてハッとしたことがありました。あるいは、100枚ぐらいスライドを作った講演会で、「次、あの青いやつください」と言われたとき、20枚ぐらいすっ飛ばしてその「青いやつ」を一発で出せるかどうかも重要なことでした。つまり、そのテーマについて立花隆と思考を同化できるぐらいにリサーチしておくのが「助手」というものなのだと言外に教わったように思います。

立花先生の凄まじさは、その博覧強記ぶり以上に、「知る」ということそのものに対する強烈な欲望にありました。知らないことは知りたくなる。知ることは楽しい。知ったことは伝えたくなるし、知ったことが繋がってくるのはもっと楽しい。そんなふうに、立花先生の好奇心の炎は途切れる事がありませんでした。

実は立花先生と誕生日が一日違いなんです。そう話したところ、「じゃあ仕事が終わったらワインでも飲もうか」と言って頂いて、明け方に猫ビル(事務所)でお酒をご一緒することになったことがありました。かつてブルゴーニュに拠点を持っていらっしゃった先生のこと、どんなワインが出てくるのだろうと楽しみにしていたのですが、「じゃ、ちょっとそこのコンビニまで買いに行こう」と笑う先生。ところが980円のコンビニのワインですら、先生と飲むと本当に面白かった!このワインはさ、コンビニってものはさ、この自転車のラベルは今書いていた原稿にも関係するんだけどさ……、と話が無限に広がりながら、最後にはなぜか大江健三郎の話になっていました。

自分の生きている世界は狭いものかもしれないけれど、それでも世界は、いつでも外へと広げる事が出来る可能性をその内に秘めている。立花先生から与えて頂いた、さまざまな領域のプロフェッショナルへの限りない敬意と好奇心の炎を絶やさずに生きてゆきたいと思います。先生、また向こうでお会いした際に、一緒にたくさんお話しさせてくださいね。

東京大学 第三期立花隆ゼミ
お疲れ様でした

いささかショックを受けている。
ショックを抱えたまま、先生との記憶を思い出しているので、私はおかしくなっているのかもしれない。多少の失礼があっても、ご容赦いただきたい。

私は2009年から数年間、他の数名の学生とともに猫ビルや事務所の整理・片付けの任をしばしば仰せつかってきた。
みなさんご存知の通り、先生は様々な媒体でたくさんの文章を書いてきた。たくさんの文章を書くにはたくさんの本や資料を読むことが必要である。たくさんの本や資料は猫ビルや他の事務所やご自宅などいくつかの場所に保管されていた(その様子は「立花隆の書棚」等参照)。
当然のことだが、先生は本棚から本を取り出して読む。その本はそのまま机の上に置かれる。また次の本を取り出し、前の本の上に置かれたりする。新聞を読み、また置く。印刷した書類などもその上に置かれる。時にはベッドの上に置かれたりもする。それが続く。
そういった本たちを先生がいない間を見計らって、本棚に戻したり整理したり片付けたりすることが我々の重要な任務だった。

先生が散らかし、我々が片付ける。我々が整理し、先生が散らかす。
先生の頭の中にはその位置関係が映像としておおよそ記憶されているらしく、片付けられることを極端に嫌がっていた。「頭の中がぐちゃぐちゃになる」とは先生の言である(らしい)。先生にしてみれば我々が散らかし、先生が整理していたということなのかもしれない。
私などは輝かしい業績に目が眩み、先生が一人の人間であることを忘れてしまい、先生の言葉に従ってしまう。しかし片付けないでいるととんでもない惨状になるはずだから、先生の意に反してでも、我々は心を鬼にして片付けなければならない訳である。私が関わる以前から先生とサポートする人たちとの間で延々と繰り広げられてきたであろう攻防である。

先ごろ、主が不在となった猫ビルを眺めながらそんなことを思い出した。あの攻防がもう勃発しないことに寂しさを感じた。

先生とサポートしていた全ての人たちに「お疲れ様でした」と伝えたい。

立教大学全学共通カリキュラム講義「大学と現代社会」立花隆ゼミ
素晴らしい仲間に出会えた場所

立花先生は私の人生を一番変えてくれた人だった。
なぜなら立花ゼミには素晴らしい人ばかりが集っていたからだ。

「今度ここに行くんだけど来れる人いる?」
立花先生の取材チームの立ち上げはいつもこんな感じだった。

決して声を張りあげないし、偉そうにもしない。権威が人のポテンシャルを台無しにしうるということを心底分かっている方のように思えた。

だからこそ、そこには素晴らしい人が集っていたし、今でもそこで出会えた人との繋がりは宝物だ。

ある日、事務所で夜通し執筆のお手伝いをしたら「朝飯行こうか」と吉野家の朝ごはんに連れていってくれた。素晴らしいワインのコレクションをお持ちの一方で、「畏まった食事は苦手なんだよね」とはにかみ、300円の牛丼を笑いながら食べたことが今でも鮮明に印象に残っている。

さようなら、立花先生。本当にありがとうございました。

東京大学 第三期立花隆ゼミ

今朝、早朝、立花先生の訃報に接し、
悲しみと共に多くの知的財産を、人生の中盤に、立教大学セカンドで与えて頂きありがとうございました。
「自分史」の書籍化で、書店に本が並んだ時は、感動しました。自分の事が載っているものが!合掌!

立教セカンドステージ大学講義「現代史の中の自分史」立花隆ゼミ
ありがとうございました。

第二期に少しだけ学外生として末席参加させていただきました。
先に旅立ってしまった岩間君にお声がけをいただき、参加させていただいたご縁でした。
当時、直接お話する機会はなかなかなく、ゼミの皆様の知識・ご経験・情熱に圧倒され、お話をミーティングルームの端から拝聴するばかりになってしまいましたが、NHKの収録に同席させていただく等、貴重な経験をさせていただきました。
「とにかく何かしなければ」と、霊長類研究所にメールを送り取材を試みましたが、玉砕。『関連する書籍をとにかく読んでからだね』とお声がけをいただいた事もございました。
思い返せば、議論すること、未知の分野を探求する、という行為を人生で初めて経験する機会を得られていたのだと感じます。
探求する事、挑戦する事の難しさを感じつつも、多くの事を学ばせていただきました。
いまはきっと、岩間君とも再会され、お話をされていることと思います。
ありがとうございました。

東京大学 第二期立花隆ゼミ
ベルリンとアウシュビッツの思い出

21世紀社会デザイン研究科で、アウシュビッツツアーを企画し、ご一緒する機会を得ました。その前のベルリンから一緒に旅をして、好奇心旺盛だけど、一旦興味がなくなるとまったく気にしなくなる、子供みたいな先生だなあ、と思っていました。

ベルリンの散策と東ドイツの想い出の場所巡り、スーパーや駅の売店でうれしそうになにやら買い込む(買いすぎた)姿、もう少しで本が読み終わるからと早めに部屋にこもる真面目なところ、アウシュビッツで天井の窓に向かって遺体が絡み合いながら積み重なっていく阿鼻叫喚な状況をあらわしたガス室の模型を丹念に見て、ガイドに質問攻めにしたあとに、「うん、わかった!」とすっきりした顔、子どものまま大人になったようなそんな先生と1週間過ごせたのは、生涯忘れません。

あまりにも自分のペースで見学されるので、みんなから遅れてしまい、さっきガイドさんがいったことを私に質問されるので、「それはさっき説明を受けました!」を怒ったら、じゃあ「これは???」と負けず嫌いの子供のように、そばにあった鉄条網の柱の跡を指してうろたえる姿はおかしくもありました。あのときは怒ってすいませんでした。

けれども好奇心にしたがって物事を徹底的に追究していくといく姿にとても刺激を受けたのか、結局、私も好奇心のままに進む研究者の道を邁進しております。
先生のいた東大の情報学環に着任した直後に訃報に接し、残念です。
東大時代のやんちゃな話も聞きたかったです。

あ、あと立花事務所に伺ったときに先生自らお茶を入れてくれたのも忘れません!
(あとでやってきた秘書の方が、え、自分でお茶を入れたの???とびっくり)

いろいろな思い出をどうもありがとうございました。

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 立花ゼミ

学生時代に立花さんといろいろな最先端の科学研究施設に取材に行った。岐阜県神岡鉱山で、改修中のニュートリノ観測装置スーパーカミオカンデの内部を見学できたのはいい思い出だ。
立花さんは行く先々で質問を重ね、文字どおり根掘り葉掘り科学者から話を聞きだした。取材はしばしば3時間、4時間に及んだ。
学業が振るわず、科学者になる夢を早々に諦めながら科学への未練を残していた私には、立花さんのように取材を名目に科学者から話を聞く仕事が魅力的に思えた。
科学ライターになりたいと伝えた次の朝、立花さんから電話がかかってきた。曰く「科学ライターは日本で食えないよ。俺は政治ものを書いて稼いでいるから、何とかやっていけるけど、科学だけだと厳しい。それでもいいのか」と。まだ20代のはじめで、先のことはあまり考えずに、というか、よく考えた振りをして、それでもいいと答えた。
実際、立花さんの言う通りで、本当に食えない時代が長く続いた。今は何とかなっているが、これから先はわからない。だが、道を変える時機をすでに逸したし、科学者に話を聞く仕事はやっぱり面白いし、目を見開いて心底楽しそうに科学者の話を聞く立花さんの姿が脳裡に刻まれているから、やめられない。

東京大学 第一期立花隆ゼミ
知の自由形競技

進学振り分け前の学部生には、クラスはあっても決まった部屋はなかった。
さまざまな学問の入り口となる講義は点在していたが、それらを一望できる見晴らし台はなかった。
立花ゼミは、「科学総合サイトをつくり、それを発展させていく」という大目標のもと、この両方を提供してくれた。

ゼミ部屋があった先端研はメインキャンパスの喧騒から離れたところにあり、足を踏み入れるとき独特の高揚感があった。
ゼミの活動の中心は、「SCI(サイ)」と名づけられた科学総合サイトのコンテンツを学生主体のさまざまな企画で充実させることだった。全学自由研究ゼミナールという枠で開講されているもののうち、もっとも語義に忠実な──全学的で自由な研究のためのゼミだったと思う。
自分にとって、二十歳の頃を過ごしたかけがえのない居場所だった。

立花先生は自分が考えるどんな「先生」像にも合致しない人だった。
背中で語るタイプの師匠だったし、ネームバリューをかさに着ず学生にタダで貸してくれる太っ腹なボスだった。
その背中から学んだ一番大切なことは何だったか。
今、職業研究者となった自分が当時を振り返ってみると、それは「知は研究によって生まれるのみにあらず」ということのような気がする。

自然科学研究機構のシンポジウムを準備するため科学者へ取材に行く。Brain-Machine Interfaceについて、攻殻機動隊の押井守監督と対談する。
自分が見た立花先生は、どういう場においても鋭い質問を浴びせ、新しい物の見方、新鮮な「知」を引き出していた。
それは狭義の個人研究とは違う、事前調査に裏打ちされた自由な掛け合いであって、話し相手と一緒になって知的好奇心を満たす言葉を探り当てていく「知の自由形競技」であった。

立花先生、自分はこの原体験がなければ、今ほど研究職を楽しめていなかったに違いありません。
本当に、ありがとうございました。

東京大学 第二期立花隆ゼミ
“知りたい”の力を教えてくれた先生

2005年春、田舎の高校から上京した私は、大学の授業の中に、あの“テレビで見ていた立花隆”のゼミがあると知り、履修することにした。初回のゼミは大教室で立ち見がでるほど、学生で一杯だった。
ところが、その後、回を重ねるごとに、ゼミに来る学生の数は減っていった。
それはなぜか?
立花先生は初回こそ、自身の興味の対象について(当時はサイボーグ技術や、量子力学についてだったと思う)熱く語ったものの、その後のゼミは学生に”お任せ”。週によっては教室に来ない日もあった。だから、立花隆の面白い話が聞けると期待していた学生はやがて来なくなった。
残った学生はチームを組み、立花隆ゼミの名のもとに、自分が知りたいと思う研究をしているところに取材に行き、記事を書くことになった。

私にとってそれまで「先生」とは、直接何かを教えてくれる存在であった。だからこうした授業は新鮮だった。そして、とてつもない有難みも感じた。どこの馬の骨ともつかない学生が、最先端の研究をしている科学者に直接会い、話を聞ける。そのために「立花隆」の名前を貸してくれていたのだ。私は真っ先に、田舎の高校生だった頃から憧れていた生物学者に会いに行った。
自分の“知りたい”気持ちをエンジンに、翼を広げ、どこへでも飛んで行け。
立花先生は、きっとそんな思いで、背中を押してくれていたのだ。

そんなに真面目なゼミ生ではなかったため、先生と顔を突き合わせて話をした機会は、実はほとんどない。でも、印象に残っている記憶が2つある。
1度目は、大学1年の終わり頃の飲み会。生物学志望だった私が当時、興味を持っていた性の分化(胎児のときに男性器・女性器はどう作られるか)の話で先生と盛り上がった。「ヴァギナはね、すごいんだよ。」大声で熱く語る立花先生。先生の興味の対象には、常識もタブーも世間体もない。そこにはただ純粋な“知りたい”気持ちがあるのみだ。とてもとても楽しかった。
2度目は、就職活動を終えた夏。ゼミの皆で行ったアウシュビッツ見学旅行の前に、先生とプラハでお酒を飲んだ。その時の話題は日本の戦後史だったと思うが、私はからきし知識がなく、先生に「それも知らないのー?」と5連発くらい言われてしまった。先生は心底がっかりしているようだったが、その時、私は思ったものである。「知らないってことで、そんなに責めないでよ。たまたま知らなかったんだからしょうがないじゃん」と。
でも、あれから10年以上が過ぎた今、先生の落胆の意味がわかるような気がしている。
「知らない」自分は、「知ろうとしない」自分の積み重ねの結果として、ここにあるということ。一つ一つの知識のこと以上に、「知ろうとしない」自分でいたことを恥じなさい。…先生はそう言いたかったのではないか、と勝手に思う。
<いつも“知りたい”という気持ちを持ちなさい。それは人生を豊かにするし、自分を遠くまで連れ出してくれる。>それが、私が立花隆先生から教わったことで、今も心に刻むことだ。ありがとうございました。

東京大学 第二期立花隆ゼミ
小石川の(ちょっと変な)おじさん

「今度、こういう面白いことやるから、手伝ってくれない?」

そう話をする立花さんの顔は、
まるで子どもが別の子どもを遊びに誘うような
溌溂としたものだった。

「この本読んだ?すごく面白いよ」

昔話でも、まして自分の自慢話でもなく、
口をついて出るのは常にその時々で
立花さんが興味を抱いている事象についてだった。

当時、二十歳前後の学生だった自分にとって、
大学の教室で、小石川にあった事務所で、
そして時には居酒屋のテーブルを挟んで直に触れる立花隆は
何よりも「面白いこと」に満ちた人だった。

こんな大人もいるんだ。いていいんだ。

もちろん誰にでも真似のできる生き方ではないことは充分理解した上で、
それでも毎日自分の興味関心のある事柄を追いかけて過ごされる姿は、
学生だった当時も、社会人になった現在もとても素敵だったなと思う。

立花さんが企てる「面白いこと」にご一緒することは
残念ながらもう二度とできないわけだが、
立花さんから、そしてゼミの活動を通して学んだことは、
いまでも自分の血肉として残っている。

立花さん、本当にありがとうございました。

東京大学 第二期立花隆ゼミ

最終更新日時: 2021 年 11 月 2 日(火)1332