生前に親交のあった方々から先生への、お別れのメッセージです。ゼミ生からのメッセージはこちらです。

立花隆さんと初めてお目にかかったのは、1995年、東京大学先端科学技術研究センターに客員教授として着任なさったときでした。私はその年から、同センターに設置された博士課程(大学院工学系研究科・先端学際工学専攻)の大学院生として、バイオテクノロジーの研究室に所属していました。
1995年度が始まって間もないころ、立花さんと、同専攻の大学院生とで話をさせていただく機会がありました。その中で、このキャンパスの歴史を発掘してみようということになり、「先端研探検団」としての活動が始まりました。同センターが所在している、東京大学の駒場第二キャンパスは、戦前の航空研究所をルーツとする長い歴史のある場所であり、航空研究所時代の実験器具や建物が多数残されていたのです。
この探検団は正式なゼミや授業とは異なり、立花さんと何名かの大学院生等からなる自主的な活動でした。大学院生はみな、自身の所属する研究室での研究活動の傍ら、この活動に参加していました。同キャンパス13号館の立花さんの研究室で打合せや会合を行い、時には「猫ビル」やご自宅にお邪魔させていただくこともありました。

私は博士課程修了後、科学技術と社会を結ぶ領域に焦点を定め、知的財産政策・科学技術イノベーション政策の研究・教育活動を行っておりますが、立花さんとの出会いがそのルーツの一つとなっております。大学院博士課程在学中という時期に、立花さんと出会い、あらゆる知をどん欲に吸収なさろうとする姿勢や、知を創出・発信なさる手法に触れ、様々な薫陶を受けることができたことは、私にとってたいへん幸福なことでした。

立花さん、誠にありがとうございました。
末筆ながら、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

立花隆さんとの40年の旅

 立花隆さんと初めて出会ったのは、私が大学生のころでした。それからおよそ40年、私の人生、生き方に最も影響を与えてくれた恩師であることに間違いありません。私の人生航海における羅針盤のような存在であり続けました。仕事で関わることはありませんでしたが、プライベートな思い出の数々が溢れ出てきます。以下、いくつかの思い出を記します。

【初めての出会い(のようなもの)】
私が初めて立花さんとお話したのは、1981年ころだったと思います。場所は、霞が関の東京地方裁判所。ロッキード裁判丸紅ルートの公判傍聴のときでした。  
公判は毎週水曜日に開かれ、通常の傍聴券の交付は先着順でしたので、いつも朝、早めに行って、傍聴券を受け取り傍聴していました。
傍聴券交付の列に並んでいると、当然、立花さんの姿を見かけます。普段は遠目に見て、「あの人が有名な評論家、立花隆だ」と思うだけでしたが、ある日、いつもと同じく傍聴券交付の列に並ぶと、偶然、私の前に立花さんが並んでいたのです。あの有名な立花隆が今、自分の目の前にいる。そう思うだけで、それはドキドキしました。それと同時に何か話しかけ、直接会話ができる絶好のチャンスと思い、この機会を逃すものかと、急造で質問をいくつか考えたのです。
 しかし、いざ質問しようしたのですが、真剣に本を読んでいる立花さんの姿を見ると、とても声をかけるのが怖くなってしまいました。
 そこで何度か深呼吸をし、意を決して「あのう~、すみません、ちょっと質問してもよろしいでしょうかぁ」と恐る恐る声をかけると、立花さんは、読書を中断されたことに不快な表情を見せることもなく「ん?何でしょうか」と振り向いてくれました。質問した内容はもう忘れてしまいましたが、質問一つひとつに丁寧に答えてくれました。時間にすれば2~3分程度だったと思います。質問が終わると、立花さんはすぐに読書に戻りましたが、私は、立花さんと直接、会話ができたことに、すごく興奮しました。後日、大学の友人などに「立花隆とお話したんだぜ」と話すと「へぇ-すげぇじゃん」と言われ、それはもう自慢話になりました。
 もちろん立花さんにしてみれば、私との出会などは特別なことではないことは確かですが、私にとっては、生涯忘れることのできない、衝撃的な出来事でありました。

【本当の出会い】
 ロッキード裁判は、1983年10月に第一審判決が言い渡された後、しばらくの期間を経て、1985年9月より東京高等裁判所で控訴審が始まりました。私は、すでに社会人になっていましたが、有給休暇や代休などを利用して、傍聴を続けていました。
 ある日の裁判の休憩時間だったと思います。法廷前のロビーにいる立花さんを見かけた私は、近寄り「この度、私は社会人になりまして・・・」とご挨拶をして、名刺をお渡ししました。すると立花さんは「そうですか」とにこにこしながら、私の名刺を受け取ると、立花さんも自身の名刺を渡してくれました。
 それはもう大変驚きました。なぜ驚いたかというと、それまで、裁判の傍聴に行くと、新人記者らしい人が、立花さんに「○○新聞社の○○と申します。この度、司法記者クラブに配属になりまして・・・」と挨拶して、名刺を渡すと、立花さんは「あぁ、そう、頑張ってな」と素っ気ない返事をして、受け取った名刺を見るともなしに、そのまま胸ポケットに突っ込み、自分は名刺を出さない、そんな光景を何度も見ていたからです。立花さんは、自分からは名刺を出さない人なんだと勝手に思い込んでいました。
 いただいた名刺を見ると、ご住所が東京都文京区小石川でした。私が勤務していた民間病院が文京区大塚で、近隣だったこともあり、医療事情について色々と話が弾んだ覚えがあります。こうして私は初めて、立花さんに私の名前を知っていただき、同時に立花さんからも名刺でご挨拶くださるという、正式?な出会いが始まったのです。その名刺は今も、宝物として大切に持っています。

【脳死の連載始まる】
 ロッキード裁判控訴審が始まって間もなくの1985年11月、月刊「中央公論」で「脳死」の連載が始まりました。当時、「脳死とは何か、脳死を人の死と認めるのか等々・・・」について様々なところで議論が活発に行われていて、私も大変興味、関心を持っていました。
「中央公論」を毎月、新刊が出ると、発売日には買い、夢中で読んだことを覚えています。
裁判は毎月1~2回のペースで行われていましたので、傍聴に通う度、開廷前や休憩時間などに、最新刊を片手に、立花さんに質問するのが楽しみでした。ただ、楽しみであると同時に、すごい緊張の連続でした。それは当時、立花さんの書籍の中で次の一節を読んでいたからです。

 ―最近、私は人に取材するばかりでなく、人から取材されることも結構多くなった。それ でわかったことは、自分で何を聞くべきかが充分にわかっていないで人にものを聞く人間がいかに多いかである。「いかがですか?」「ご感想をちょっと・・」と水を向けるだけで、相手が何かまとまりのあることを当然にしゃべってくれるものだと思い込んでいるおめでたいジャーナリストがあまりにも多いのだ。(中略)安易な問い方をし、それに安易に答え、その安易な答えに満足して問答を終るという最近のテレビ・インタビュー的風潮に私は反発しているので、いいかげんな質問者にはわざと意地悪く質問を返し続けることがよくある。(中略)人にものを問うということを、あまり安易に考えてはいけない。人にものを問うときには、必ず、そのことにおいて自分も問われているのである。―
 「知」のソフトウェア(講談社現代新書) 「聞き取り取材」の心得より

 これを読んでいた私は、漠然とした、包括的な質問は許されず、可能な限り的を絞った個別的、具体的な質問を、必死に考えて臨むようになりました。
それはもう立花さんに、私の質問力を見定められているようで恐く、すごい緊張の連続でした。それでも具体的な質問には、立花さんも丁寧に答えてくれましたし、時々、核心を突いた質問?には、嬉しそうに熱く語ってくれることもあり、そんなときは、心の中で「やったー」と叫んで興奮したことを覚えています。
 中央公論の連載が終わり、しばらくして、その連載をまとめた「脳死」と題する単行本が発売されました。私は、発売とほぼ同時に書店に買いに走りました。
それから数日後、私宛てに中央公論社から小さめの小包が届きました。開けてみると、「脳死」が一冊入っていました。すでに購入していたし、あらためて注文した覚えもなかったので、何だか訳が分からず、表紙をめくってみると、なんと、「謹呈 立花隆」の直筆サインが入ったしおりが入っているではないですか。
 それはもう、驚いたなんて言葉だけでは言い表せないくらい、仰天驚愕でした。
取材対象だったわけでもない、一読者として質問をしていただけの私に、あの立花隆さん本人から、新刊書を贈呈されるなんて、夢の中でもあり得ない、想像を遥かに超えた世界の出来事でありました。と同時に大変な難題が降りかかりました。それは、すぐにお礼状を出さなければなりません。立花さんに読んでいただく文面と考えただけで、まるで世界一難しい論文試験に挑戦するかのような気分になりました。想像するに、取材先の病院の医師や大学の先生にも贈られているのでしょう。それらのお礼状と見劣りしないものを書かなければと思うと、それはもう一時は気持ちが押し潰されそうになりました。
 結局、今では、どんな内容を書いたか思い出せませんが、何度も書き直した末、便箋に万年筆で丁寧に直筆した記憶だけが残っています。その後、「脳死再論」が新刊された際も、贈呈いただきました。
 私にとっては、真剣勝負の思いで質問をしていましたが、立花さんは、私の質問力をそれなりに評価してくださり、一読者にすぎない私に新刊書を贈呈してくれたのだと勝手に思っています。「脳死」「脳死再論」ともに発売と同時に購入し、その後贈呈本が届いたので、どちらも2冊、家宝として自宅の本棚に大切に所蔵しています。

【言論生活25年を祝う会】
 1993年11月 立花隆さんの「巨悪VS言論」出版を記念し、併せて言論生活二十五年を祝う会が開かれました。その招待状が私宛てにも届きました。
 私はジャーナリストや編集者でもなく、著名人でもありません。そんな私にも招待状が届いたのですから、これまたびっくりでした。
 当日参加すると、会場には、大江健三郎さん、妹尾河童さん、秋山豊寛さん等々、普段テレビでしか見ることのない各界の大物著名人が多数おられました。
 私にとってはもう別世界ともいえる超越空間で、大江健三郎さんや井上ひさしさんとは、会話して著書にサインをいただくなど興奮の連続でありました。
 パーティーでは、スピーチに立った多くの著名人の方々から、立花さんとの思い出話や、知られざる素顔の一面が語られ、立花さんは終始にこやかな笑顔だったことを覚えています。私にもご招待いただいた立花さんのご厚情に今も感謝しています。

【立花隆ゼミに参加する】
 私は1997年4月から1年間、当時、東京大学駒場キャンパスで開講されていた立花隆ゼミに、社会人ゼミ生として参加しました。社会人ゼミ生といっても大学正規のものではなく、いわゆるモグリ学生です。
 開講初日の授業終了後、立花さんに「これからも聴講に来てもいいですか」と聞くと、立花さんはニコッと笑顔で、「いいよ」と二つ返事でOKしてくれました。これで晴れて?ゼミ生となり、1年間通うことになったのです。
 当時、私は渋谷区に勤務していて、駒場キャンパスまで近かったことと、ゼミが18時からだったので、社会人の私でも、仕事を終えてから通えたのです。
 立花さんの講義は、文系、理系を超え、あらゆるジャンルを縦横無尽に駆け巡り、知的に刺激され興奮する立花ワールドでした。
 そこで気が付いたことは、学生当時は興味や関心がなかった学科や分野についても、社会人となって、一定の人生経験や社会経験を重ねてから、あらためて学ぶと、全く違った受け止めとなって、興味深く学ぶことができるということです。それは大きな収穫だったと思います。
 立花隆ゼミの思いでは溢れ出るほどありますが、その中で、今でも懐かしく思い出されるのが、東大先端研の研究室を訪ねた日のことです。
 翌日に島根大学の富野暉一郎教授を取材する予定があり、そのインタビューの準備状況のメモを持参して、取材方法、注意点等についてアドバイスをお願いしに伺ったのです。立花さんは、私のインタビュー計画の説明を半分も聞かないうちに「こんなに具体的な計画は必要ないよ、これだけは聞きたいという質問だけ用意しておいて、あとはその場の話の流れに乗りなさい。あんまり取材の方向性や枠組みをあらかじめ決めてしまうと、せっかく面白い話が出てきても不完全燃焼で終わりかねない。インタビューはしてみないと、どんな話が出てくるかわからない。面白い話、意外な話が出てきたときにどれだけ臨機応変に対応して話を聞き出せるかが重要だ」と取材の極意ともいえる話をしてくださいました。
 続いて「あなたはもう立派な社会人だから心配ないけど、一緒に行く学生たちが失礼、無礼な振る舞いをしないよう、そちらのほうをどうぞよろしくね」と言われたことにびっくりしました。東大先端研の研究室で立花さんから、取材の基本やノウハウ等について直接、御指導をいただいた貴重な体験として今もなお、思い出深く記憶に残っています。

【フランス・ブルゴーニュの旅】
 2000年5月、当時、立花さんが友人らと所有していたブルゴーニュのシャトーを手放すので、一緒に行かないかと誘われ、行ってきました。
 一緒に行った仲間には、今やサイエンスライターとして大活躍の緑慎也さん、編集者として活躍中の平尾小径さんもおられました。そして現地では、エッセイストの戸塚真弓さんと合流しました。
 シャトーでは、スーパーで食材を買い込んで、皆で料理を作りました。私がお肉を包丁で切っていると「この包丁はロケット打ち上げ取材に種子島に行ったときに買ったものだから大事にしてね」と言われびっくりしました。
 立花さんは、種子島産の包丁が一番いいといって、ロケットの取材に行く度に買ってくるという話を雑誌等で読んで知っていたのですが、その包丁をブルゴーニュのシャトーにまで持ち込む、その料理に対する情熱、こだわりに敬服したことを覚えています。食卓には、豪快な立花流料理が並びそこに自家製ワインや年代ものワインが合流して彩りました。立花さんは久々の休暇だったのでしょうか。また、仕事関係者のいないプライベートな顔ぶれだったからでしょうか。
 ワインを相当に呑んだようで、途中で正体をなくすほどへべれけに酔っ払ってしまったのです。それは普段の立花さんの姿からは想像もつかないほど、呂律が回らない口調で「もう先に寝るね」と言いだし、ふらふらと立ち上がって歩き出したのです。寝室はシャトーの2階です。これは危ないと思った私は、付き添いました。階段を昇る途中、手すりのロープが突然切れて一緒に転落しそうになる危機一髪もありながら、何とか寝室にたどり着きました。意味不明なことを口走って笑っている立花さんにパジャマを渡し、着替えている間に、マットレス、布団を運んできて敷き、寝ていただきました。
 驚いたのは翌朝です。私は早朝、明るくなると目が覚めてしまい、1階のリビングに降りていくと、もう立花さんはコーヒーを飲みながら原稿をチェックしていたのです。一夜を明かすともういつもの立花隆さんがそこにいました。
 リビングには爽やかな朝日が差し込み、窓の外には広大なブドウ畑が見えます。前夜、夜更けまで吞み明かしたお仲間はまだ誰も起きてきません。
 立花さんと奥様、そして私の三人でテーブルを囲み、朝食となりました。
立花さんは久々のバカンスを楽しむかのように、珍しく、たわいもない日常の世間話で楽しく会話が弾み、休日のゆったりとした時間が流れる、幸せなひとときを過ごしました。前夜と翌朝、いずれも日常に見せることのない立花さんの素顔を見た思いでした。

【食ってけてんのぉ?】
 私は2008年に行政書士事務所を開業し、今日に至っています。
 2010年1月第三期立花ゼミの最終講義の日、私も出席させていただきました。ゼミ終了後、渋谷に移動して打ち上げ会が行われました。私は幸運にも、立花さんと対面する席になりました。
 最初は、がんに関する話題だったと思います。それが突然、立花さんは「武藤さん、最近ひとりで仕事始めたみたいだけど、食ってけてんのぉ?」と言いました。これまで多くの人は私に「調子はいかがですか?」や「順調ですか」という感じで尋ねてきていたので、しかも「食べていけているの」ではなく「食ってけてんのぉ」という遠慮のないストレートな物言いに、一瞬のけ反りそうになりました。私は「えぇ、大変ですが何とかやっています」みたいな返事をしたと思いますが、「どうだ、自由業はつらいだろ」という感じで、立花さんの目がやさしく笑っていたのがすごく印象に残っています。

 決して身近ではないが、少し離れたところで優しく見守り、気遣っていただいていた立花隆さん。今は天国から「食ってけてんのぉ?」と見守ってくださっているような気がしています。本当にありがとうございました。

最初に、立花隆さんにお目にかかったのは2007年秋だった。通信社の記者として取材を申し込み、秘書の菊入さんを通じ、了解をいただいた後、偶然、立教大学の催しで立花さんと出会った。

「取材の件、よろしくお願いします」とあいさつすると、立花さんは「受けるとは言ったが、本当にやるとは言っていない」というまさかの返答。「何だ、このおやじ!」と内心、思ったが、ここで引き下がるわけにはいかない。「お忙しいことは重々承知しておりますが、何とかお時間をください」「とにかく、忙しくて時間がない!」。

押し問答を繰り返し、「では、猫ビルから(ゼミのため)立教大へ移動する際に、毎回、送り迎えしますから、その間に話を聞かせてください」「授業の準備で忙しくてできない。それに長崎に出張しなくてはいけないから時間がない」「では、羽田から長崎までの飛行機の中で、インタビューさせてください」「講演の準備をしないといけないから、機内では無理だ」「では帰りの便ならばどうでしょうか」

—こんな応酬がしばらく続いた。大学で、場違いな格闘技をしているようだったが(その節は大学関係者のみなさまには、ご迷惑をお掛けしました)、「では、秘書に連絡して」という立花さんのひと言で決着がついた。「ゼミ生からのメッセージ」を拝読すると、学生(特に女子)にはやさしく思いやりあふれる教育者だったようだが、私のような新参者には厳しかった。そこには「良い仕事にはパッションが欠かせない」という信念があったように思う。初対面で「パッションはあるのか」という立花さん流のテストを受けたということだろう。「扉はたたくものだ」いや「扉は開くまでたたくものだ」という立花さんからのメッセージと受け止めている。

開いた扉の先には、確かに芳醇な世界があった。思い出される一瞬一瞬が懐かしく、いとおしい。

初めて面会した1980年代前半の東京。私がパリから帰国していた時に、フランス・チーズ輸入代理店の紹介で帝国ホテルのロビーラウンジで、新聞雑誌で顔をよく見知った人が待っていた。近い将来、彼がチーズの取材でフランスに行くというのが面会した理由である。それから交流が始まり、21世紀に入るまで続いた。かれこれ20年程になる。

さまざまな取材のためにパリを訪れた立花さんの仕事を手伝った。パリと東京でよく酒席を共にした。会うといつも酒があった。政治から下ネタまで「知識と教養」が何でも頭に入っていた博覧強記の人だから、ワインにも日本酒にも他の酒にも詳しい。下ネタやエロスの話で何度も笑った。愉快な楽しい酒席。

よくこんなことがあった。
彼の自宅とその近くに建てられた、溢れんばかりの蔵書に埋もれた「猫ビル」のある文京区と、神楽坂に住む私の自宅がある新宿区はお隣同士。歩いても歩ける距離だ。仕事が一段落したのか、執筆に息詰まったのか、あるいは読書に疲れたのか、深夜に突然電話を掛けてきて、「これから飲みに行ってもいい?」と。驚いたのは、その行動力である。受話器を置いたと思ったら彼が玄関の前に立っていたといった、まるで豹のような素早さなのだ。

パリ取材でもそうだった。仕事のために一分一秒でも時間を無駄にしたくないという思いから、ともかく足が速い。歩く速さが尋常じゃない。私は付いていくのが精一杯だった。高校の時に陸上選手だったから、風体からは想像できない柔軟な身体と敏捷さが備わっていたようだ。

最期に、立て続けに会ったのは、彼の母親の葬儀に列席した時と、神田神保町の交差点である。並外れた読書家が東京堂書店に行くところにたまたま遭遇したのだ。

以前ワインを飲みながら私が、「立花さん、書きたいテーマはまだたくさんあるんでしょ?」と、野暮を承知で聞いたら、「そうなんだよ。大きなテーマだからさ」と、赤ら顔で応じる。それから目をギラギラさせて指折り数え始めた。20や30じゃない。ギブアップした私は早々にその話を切り上げた。

人生に残された限られた時間を目一杯そのために使いたい、という強い意志と気配が彼の眼の中に感じられた。病にも侵された。でも、旺盛な取材や執筆は変わらず、後進の育成にも当たり、病の悪化は私の耳にも届いて来た。余計な時間で煩わせたくないという思いから私は以来、没交渉を決めた。そして訃報が届いた。

立花さんとはほんとによく飲み、よく喋り、よく取材旅行した。楽しい濃い時間を共有した。わざわざ異国に暮らし、苦労しているようでしていない、屈折しているようでしていない、変人そうで普通の人、深刻そうでお気楽、ネクラのようで実はネアカ、強面そうで実はシャイな、複雑そうで単純、頑張りそうだが頑張らない、硬派なようでミーハー、知識と教養がありそうで半可通、そんな不肖の弟子みたいな私と妙に馬を合わせてくれた立花さん。思い出は尽きない。

お付き合いくださりありがとうございました。
心からご冥福をお祈りします。

立花さんにこういうかたちでメッセージを送ることは、寂しく、悲しく、今も別れを受け入れがたい気持ちです。思えば、立花さんにとって、私はちょっと不思議な友達だったことでしょう。私たちは大学時代の同級生でしたが、その後実に長いブランクがあって、それなのに幸運なきっかけから、まるでずっと付き合いが続いていたかのように、この10年余りを親しくさせていただいておりました。

思えば、広い駒場キャンパスで、語学クラスも同じでない立花さんと私がどうして友達になったのか、おかしなことにそのいきさつはウロ覚えです。今も、元同級生たちからは、何で親しくなったの?と聞かれます。考えてみると、文学サークルに属していた立花さんは、いつも駒場の学生食堂の出入り口の前に部員数名で立っていて、「駒場文学」という機関誌を食堂から出てくる学生たちに熱心に売っていたのです。立っている部員のなかには私と同じクラスの学生(たとえば岩本隼さん)もいましたので、立花さんと私が友達になったのはそれがきっかけだったと思います。出入口が狭いので必ず捕まってしまうし、買わないと放してくれないような売り方だったので、私たちはいつの間にかおしゃべりをする間柄になった(なってしまった?)気がします。立花さんは、あの当時から、人懐こくて、北関東なまりの、ちょっとかわいいおじさんタイプの学生だったのを思い出します。少し親しくなると、「彼女ができたので紹介するよ」と自慢げに話したりして、とても無邪気でした。いきがかり上、私は、必ず機関誌を買うよいお客さんになってしまいましたが、おかげで、「駒場文学」の短編小説や詩を愛読するようになり、立花さんとは別の(!)作者のファンになったりしておりました。お互いにそんな青春時代があったことを、今はとても素敵なこととして思い出しています。

大学卒業後、立花さんとは、彼が週刊文春の記者だった時に取材協力を求められて1回、『田中角栄研究』が世に出て騒がれていた頃に銀座の人混みの中で1回、たったそれだけお会いしただけで、おつきあいが永く途切れておりました。それが、思いもよらず、私が教員をしていた立教大学で講演会の講師をお願いしたのがきっかけで、立教大学大学院・社会デザイン研究科と立教セカンドステージ大学で、大学院生や社会人に教える仕事をしていただけることになりました。著名なジャーナリストとして活躍してきた立花さんが、その後どんな雰囲気の人になっているのか、正直なところ少し心配もしてはいたのですが、一緒に仕事をしてみると、昔のままに誠実で率直で、本当に嬉しくなりました。

いろいろなことが思い出されて、振り返るときりがありません。今は、永くよいお友達でいてくださったことに感謝あるのみです。私も、いずれ自然に帰る日が来ますので、立花理論ではどう言われてしまうかわかりませんが、そちらの世界でまた出会っておしゃべりの続きをしたいと思っています。

立花 隆氏の「東大教養学部非常勤講師」招聘顛末
―立花ゼミは無かったかも知れない―

はじめに
2021年4月30日(金) 23時38分、立花 隆さんが急性冠症候群によりご逝去された。

私が東京大学教養学部の教員だった頃、立花さんには総合科目「応用倫理学」と全学自由研究ゼミナール「調べて書く」、「調べて書く、発信する」(通称 立花ゼミ)、さらに駒場でスタートした科学技術インタープリターコースの初期の非常勤講師になっていただき、大変お世話になりました。立花さんを教養学部にお呼びした者として、その経緯を記させていただきたい。

なぜ、立花さんに授業をお願いしたのか
東大生は入学後、最初の2年間は教養学部前期課程で学ぶ。その授業は各学問分野の入門的授業が林立する。その授業は個別化した各学問分野の序論だ。分野間をまたぐものは無い。ましてや、複数教員によるオムニバス(寄せ集め)ではなく、一人の教員による文科系理科系をまたいで学問全体を鳥瞰するような科目はない。西欧では19世紀前半まで科学は自然哲学一枠で論ぜられ、各個別分野の区分け専門化はその後に起きた。だが、日本が輸入した頃の西欧科学は既に個別学問分野に分かれた後だった。この学問(特に自然科学)の底流にある共通認識(自然哲学としての総合的な世界認識)や連関がないまま、個別学問分野を学習する。これはキャッチアップには優れているが、その後の発展には弱い。日本のアカデミズムはそれぞれのタコツボの中に安住し、領域侵犯をすることを極力避ける。そのタコツボの寄せ集めが教養学部。学問分野間の関係や社会における学問の意義を統一的に論じることなくして、学部1、2年生を相手にする。多くの日本の大学は入学時には学部学科まで指定してタコツボの再生産にいそしむ。これではまずい。私が理想としたのは宇宙の歴史、構造から地球の形成、生命の発生、進化、人間社会の形成、宗教、哲学、認知科学を縦横に巡り、一人の知の巨人が語るH.G.ウェルズの「世界史概観」(岩波書店1939年)やC.セーガンの「コスモス」(朝日出版1980年)、最近ではY.N.ハラリの「サピエンス全史」(河出書房新社2016年)のような授業だ。これこそ真のリベラル・アーツ教育だ。しかし、自分は分野間を自由に飛び越える授業をするのは役不足。誰かそのような学問と社会を俯瞰するような授業ができる人材はいないか?そこで思いついたのが、その綿密な調査力で田中角栄氏を失脚に導き、「宇宙からの帰還」で科学と宗教を語り、「脳死問題」や「臨死体験」、「サル学の現在」等、多くの心と進化についての著作をものにしてきたジャーナリスト 立花 隆さんだ。彼なら多感な教養学部1,2年生を相手にこれまでのタコツボ的序論の寄せ集めを脱却し、一人の見地から人類の未来を予想し、若者たちに俯瞰的授業を展開できるのではないかと考えた。

初めは立花さんに断られた
1995年、私は立花さんに「東大教養学部で学生たちに文理を超えて、社会と学問を語り、学問を俯瞰する授業をやっていただけないか」と手紙を書いた。しばらくして立花事務所の秘書の佐々木千賀子さんから電話をもらい、立花さんに会うことになった。

指定された日時に合わせ、丸の内線「後楽園前」駅で下車し、言われた通り、猫ビルに向かった。何万冊もの本にあふれた内部写真を見ていたので、猫ビルの細さに驚いた。呼び鈴を押すと初対面の佐々木さんが現れ、上階に案内された。そこには夢中で何かを執筆中の立花さんがいた。彼は手元の目覚まし時計を見ながら時間を限って筆を止め、私との会話を始めた。私が東大で授業を担当してほしいと言うと、「僕は若い学生たちとdealするのは気が進まない」、「自分は若者が好きじゃない」、「取材や原稿書きに追われているので授業をする時間がない」というネガティブな答えが返ってきた。頭の中の執筆エンジンがかかっているから早く切り上げたいという様子。どういう流れだったか、私は「脳死臨調」や「臨死体験」の著者である立花さんに話す機会はもう無いと思い、その3年前に亡くなった父の最後について話した。臨終の父は心の中で何かを言っていた。しかし声として意思を表明できない。最後に言いたいことを言えないのはまさに「もの言わぬは腹ふくるるわざ」。とても辛いだろう。家族も聞きたい。最後の会話をしたい。人はみな、そうやって残念な最後を迎えるのではないか。私はついでに臨終宣告の直後、家族同士で「おい、喪服を持ってきたか」と話しだした時、死に逝く母親の眼から涙が流れるのを目撃した看護婦から聞いた話もした。彼女は後に出家し、僧侶になった。臨終宣告後も聞こえている、でも発声が叶わない。そのもどかしさについて話すと立花さんは埴谷雄高の「死霊」について語ってくれた。だが、肝心の「東大で授業をやろう」という話にはならず、割り切れないまま猫ビルを後にした。

先端研に救われた
それからしばらくして佐々木さんから研究室に電話が入った。次に出てきたのが立花さん。来年度から駒場にある東大先端研(先端科学技術研究センター)の客員教授をすることなったので、ついでに教養学部で週一程度なら授業をやってみようかと思うという話だった。ここは先端研に感謝しなければいけない。

早速、私が所属する教養学部生物学教室の教室会議で立花さんによる授業開講の可能性について説明し、生物学教室に割り当てられた非常勤講師枠の一つを使わせてもらえないかと願い出た。ようやく了解をもらい、次なる学部教務委員会で審議された。その結果、総合科目の一つである「応用倫理学」枠でどうかという話になった。「応用倫理学」という講義名を立花さんに伝えると「へえ、倫理の応用? でも、面白いかも」という返答。職名は客員教授ではなく、非常勤講師。教養学部教務課によると客員教授は学部の授業は担当出来ない規則だと断られた。もっと適した職名はないのか?学外の識者に対するリスペクトが東大には足りない。

こんなこともあった。ある日の深夜、自宅に学部執行部の某氏から電話が入った。「なんで教養学部が立花 隆の売名行為に加担する必要があるのか!」。私は東大の前期課程に専門分野にとらわれない俯瞰的授業が必要。しかし、そのような茫漠とした授業は立花さんしかできないと説明した。その数年後、教養学部は、立花さんにその運営諮問委員への就任を依頼した。学部執行部の節操の無さには驚いた。

「応用倫理学」の開講
立花さんは授業の統一テーマを「人間の現在」とした。「1996年度教養学部前期課程履修科目紹介」という冊子に載せるべく総合科目「応用倫理学―人間の現在―」のシラバスを入稿。締め切りギリギリだった。立花さんの希望で授業は週一回、午後6時からの開講。教室は午後8時以降に使用予定がなく、できるだけ多くの学生が入り、スクリーンと書画カメラがある教室が望ましいという申し出が来た。それらの要望を満たす教室として、学部教務課は教養学部3番目に広い360名収容の大教室(13号館1313教室)を割り当てた。その後、立花さんは先端研からの帰り道に使用予定の教室や図書館を見に教養学部を訪れた。

そして、いよいよ1996年度4月から立花 隆非常勤講師による「応用倫理学」が始まった。開講初日の午後5時ごろ、立花さんは秘書の佐々木さんと共に大量の資料を入れたトランクを引っ張りながら生物学教室のゼミ室に現れた。彼の非常勤講師枠は生物学教室分を使うので、生物学教室が根拠地。以降、授業前にその部屋で一服し、授業後も一服しながら学生たちとの打ち合わせをするスタイルが続いた。

授業が始まる頃に、13号館の周辺は大教室に入りきれない学生たちであふれていた。その多さを見て、立花さんもやや困惑気味。ついに彼は「やるっきゃない」と一声を上げ、教室に向かった。建物の入り口にあふれる学生たちをかき分けて教室に入る。階段教室の通路階段を下りて教壇に近づくが、履修希望者が階段やフロアにも座り、なかなか教卓まで進めない。ようやくたどり着くと立花さんは開口一番、この授業はただ聞いていれば済むタイプの授業ではない。毎回、レポートを書かせる、いくつかのグループを作り、そのグループ内であらかじめ課題を作り、それに関する調査や議論をし、それを授業中に発表してもらう等々、この授業は生半可な態度では受講できないと宣言。その後、授業は初回なので、まず、自己紹介を兼ねて立花さんの生い立ち、東大に入ってからの自分史を語った。話は3時間に及んだ。学生たちに自分の学部生時代の国際会議に出席や海外放浪の旅を話し、学生は留年を恐れるな、やりたいことを真剣にやれ、こんないい時期はない。さらに、やたら多くの授業には出るな、テーマを決めて勉強しろと自らの経験を踏まえて檄を飛ばした。彼は自分史を語った後、受講生をグループ分けした。なんとその作業中に自発的にリーダーシップを発揮する積極的な学生たちが現れ驚かされた。その後、グループ内で学生同士の自己紹介や課題設定に関する議論が続いた。毎回、彼の授業は3時間以上の講義と議論だった。後で聞いたが、佐々木さんはこの日の日中、内視鏡手術で大腸ポリープを切除したばかりだったとか。激しい立花さんにはそれに負けない根性の秘書がよくいたものだ。

立花ゼミホームページの開設でエンジンがかかった学生たち
講義のはじめの頃、受講希望者が想定以上に多いので、立花さんは独自の採用基準を3つ提示した。1)くじ引き、2)レポートの高評価順、3)授業内容をまとめて発信するホームページ作成に参加するボランティアグループ。もし、何か特別に理由があれば相談に来いとのこと。あとから振り返ると、この3)に汗を流した連中が立花ゼミの主体となり、それゆえ、その後の人生に立花さんの影響を強く受けた学生たちも3)の中に多くいた。立花さんは授業開始前から授業のホームページを作りたいと私に言っていた。私はその頃まで「授業のホームページ」の何たるかについて何も知らなかった。初回講義の終了後、急遽、ITに詳しい受講生たちが自主的に作業チームを作り、私の研究室のデスクトップコンピュータを使って「応用倫理学ホームページ」を作り始めた。彼らはこの作業に徹夜も辞さない学生たちばかりだった。

立花さんの講義は非常に広範囲にわたった、政治関係はむしろ少なく、科学や芸術が多かった。話は武満 徹、マルセル・デュシャンの作品論から急にドレイクの方程式の話。地球、太陽、太陽系の形成、地球生命の誕生と進化。銀河系の形成、宇宙の形成に及んだ。その大宇宙を逍遥する展開と内容の濃さは私の期待を超えた。

授業を続けたい
この授業の開講は1996年度の夏学期という期間限定。話しきれず、次第に守衛に促されて講義を終える日も増えてきた。教室を追い出され、さらに生物学教室がある建物の大会議室でゼミを続ける日もあった。夏休み中には泊まり込みで合宿もした。 ある晩、授業後に立花さんは「この授業を冬学期まで延長できるかな」と言い出した。私が猫ビルにお願いに行った時には、学生とdealするのは嫌いと言っていた立花さんが、さらに授業枠が欲しいというのだ。この学生たちなら書物やTV番組とは違う形で自分の考えや生き方を伝えることが出来ると手ごたえを感じたからだろう。実はその頃、「応用倫理学」の授業枠の責任母体の教室から、立花さんが講義をすると他の教員による「応用倫理学」枠の受講生数が減るので次年度の続投は好ましくないと言われていた。そこで、再び、生物学教室枠の非常勤講師枠を使って立花さんに冬学期の「全学自由研究ゼミナール」をお願いしたいと生物学教室に申し出、承認された。このゼミは東大紛争の後、学生と教員が親密に議論しながら進める授業が必要と、それまでの反省をこめて新しく作られたユニークな授業枠だ。そのスタイルと内容は講師の自由。成績は合否のみ。一方の「応用倫理学」は総合科目の一つ、100点満点で成績が付き、それが進学振り分け(進振り)にカウントされる科目だ。全学ゼミなら、進振りとは無縁なのでその方が立花ゼミに適する、ということで、1996年度冬学期に「全学自由研究ゼミナールー調べて書く」がスタートした。翌年度からはゼミ生たちは学生自治会に「学生の要望による非常勤講師枠」を得て、自治会から学部教務委員会に申請した。それが教養学部教授会で承認され、次年度も「立花ゼミ」が継続することとなった。そのゼミのタイトルは「調べて書く、発信する」。立花さんは中心テーマを立てて、それをもとにゼミで一冊、本を作ろうと呼びかけた。早速、テーマの選定で話が盛り上がる。沢山のテーマが提案され、一件ずつ議論し、投票。最多票を獲得したのが「二十歳のころ」。これは無名有名な人々が20歳の頃、どんなことを考え、どんな生活をしていたかを取材してまとめるという企画。丁度、受講生たちの年齢にふさわしいテーマだった。アポ取りから、取材、原稿化のすべてを学生自身で行い、何度かの非売品の予備出版を経て完成し、ついに完成体が新潮社から売り出された。書名も「二十歳のころ」。以後、この本は多くの人々に読まれ、文庫版となり版を重ねている。その後も立花ゼミの活動は何冊かの本の出版に結実した。

立花さんが理科教育に目を向けた
学習指導要領の改訂により、高校理科(物・化・生・地)4科目のうちの2科目選択必修化が行われた。その新教育課程を経た第一陣が1997年4月に入学してきた。その結果、自分は高校で1時間も物理あるいは生物を学習していないため、未履修分野はさっぱりわからないと公言する大学生が増えてきた。将来、医学部に進学する理科3類においても高校生物の履修率は4割。その状況は20年以上経た現在も変わっていない。これを問題視した私は生物学教室の協力を得て高校時代の理科履修歴と大学1・2年次の生物系科目の成績との間の相関調査を行った。その結果、高校生物の未修者は既修者に比べ、教養学部の1年生はもちろんのこと、1年間、生物学を履修して2年生になっても生物学系科目の成績が既修者に比べて平均2割低いことが分かった。統計学的にも有意だ。高校生時代に物理を学習した学生と学習しなかった学生たちの差も大きい。そのため、物理学教室は入試での物理選択者と非選択者で異なるクラスを編成し、未修者には、高校物理から教える履修歴別授業を行った。生物学教室は初年次向け「一般生物学」を高校時代で生物未修を前提に授業を展開した。大学教育の高校化だ。

私はこの理科未履修問題を立花さんに説明し、彼も問題意識を共有した。そこで、立花さんと農学部の正木春彦さん、さらに東工大の星 元紀さんらとともに「高等教育フォーラム」という団体を立ち上げた。投稿形式のホームページを作ったところ、そのヒット数は1年後には100万を超えた。数回のシンポジウムを開催し、文部省への提言もおこなった。この問題はマスコミでも取り上げられ、東大以外の旧一期校大学の中に入試センター試験と個別大学二次試験で異なる理科科目を選択させ、合計理科3科目の学習を課すようにした国立大学も出てきた。文科省のおひざ元の東大は相変わらず、今も物理・化学か化学・生物という二通りの偏った履修歴の入学者を受け入れ続けている。地震や台風が多い日本にあって、地学履修者はほとんどいなくなった。

高校生物ではイオンについて説明できない。イオンは高校化学の守備範囲であり、それを越境して教えることができないからだ。高校生物ではヒトの妊娠、避妊、性接触性感染症(STD)を教えることができない。感染症に関する教育もない。保健体育の守備範囲だからだ。だが、事実上、皆無に等しい。現在も新型コロナウイルスによるパンデミックに最も無知な国になっている。省庁の縦割りと同様、セクト主義は学習指導要領まで及んでいる。分野間の越境は欧米の高校理科はむしろ常套手段。その方が自由にテーマを展開でき、生徒の学習意欲を喚起し、理解を深められるからだ。日本は逆に分野間の連絡を絶って面白味を減らしている。

高校での偏った理科履修歴は、以後の未修科目への苦手意識を生む。残念ながら、理科4領域の必修選択制は二十数年間を経た今日も続いている。自然科学は元来、シームレス。分子生物学は物理学者が作った分野だ。他の生命科学でも物理学や数学が武器となる。化学物質による環境汚染は生物学の問題でもある。科目間の相対関係を教えない理科教育は日本の科学技術を弱体化する。科学に対するリスペクトがない教育をする国は亡びる。立花さんはこれを契機に大学教育、中等教育についても盛んに発言し始めた。「東大生はバカになったか」(文藝春秋社)はその代表作。

最後に
東大教養学部での立花ゼミは1997年度で終了したが、その後も自主ゼミとして継続。2005年の秋から教養学部内で科学技術インタープリタープログラムが始動し、同時に立花さんの再登壇と立花ゼミ復活が実現した。その後、立花さんは立教大学でも立花ゼミを始め、さらに東大情報学環の特別教授として東大の大学院でも多くの学生達の心に火を灯し続けた。彼の分野にとらわれない、すさまじいまでの好奇心、取材力、文章力、ディベート力、突破力と哲学は歴代のゼミ生に大いなる影響を及ぼした。その哲学は彼が亡くなった後も各界で活躍する元ゼミ生たちの生き様に反映されていくだろう。その意味では立花さんは活き続けている。立花ゼミ開講に関与した者として感慨深い。

本年4月30日 の夜、立花さん本人がナースコールのボタンを押し、ご逝去されたそうだ。彼は自分の身体に異常を察知し、ナースコールしたのだろう。その後、彼の頭脳は血流が途絶えても滞留する血液に酸素がある間、そして神経細胞内のATPが尽きるまで作動し続け、混濁しながらも意識を維持できたのでないか? 恐らく彼は4月30日の夜、「あっ、これが臨死体験です」と頭の中でその様子を実況中継していたのではないか。彼本人による本当のエピローグを聞きたかった。

心より、哀悼の意を表します。立花 隆先生、有難うございました。

東京理科大学教授、東京大学名誉教授、(ドイツ法人)国際生物学オリンピック議長、宗教法人眞福寺住職

追記
誠に不謹慎ながらその実況中継を想像してみた。もう確認するすべはない。間違っていたら、立花先生、お許し下さい。 いつか、私自身で裏を取ります。

・・・・・・・・・

「えーと、死っていうのは明らかに何段階があるんです。私の場合は瞬間的な脳の破壊による即死ではなく、幸いベッドの上で時間をかけて死を迎えることができそうですので、じっくり自分が死ぬ過程を観察してみたいと思います。いよいよ、それが出来る瞬間が来ました。

まず、死の第一段階としてアウトプットが出来なくなる。つまり、さっきナースコールを押すことができたのに、今は筋収縮を起こすことができず、指も眼瞼も動かすことが出来なくなりました。もちろん、呼吸が止まったので声も出せません。でも外から音は聞こえる。つまり、まだ入力はあるんです。

(中略)あー、ナースがやって来た。脈が消え、瞳孔が開いたので臨終だと判断している。ナースが瞼を閉じてくれてもまだ眩しい。瞳孔散大のせいか、網膜や視覚野の神経細胞のカルシウム・バーストのせいか? 

それにしてもやけに明るい。眩しい。これは聞いていた通りです。でも、まだ思うことができる。脳内に滞留している血液中のヘモグロビンが酸素を持っている限り、あるいは神経細胞内ATPがある限り、脳は動く。甦るとしたら、今しかない。でも、ぐいぐいと死の世界に吸い込まれていく気がします。あのー、見当識はまだあるつもりです。脳死はまだです。

やはり、ここで短時間であっても意識があるうちに臓器を摘出するのは明らかに殺人行為です。脳死論者も自分がこの時期に差し掛かった時に分かったんじゃないかな? 脳が完全な器質死に至っていない。まだ、私は思考している。我思う、故に我ありです。

(中略)えーと、だんだん音が聞こえなくなって来ました。いよいよ入力喪失の段階に入ってきました。

(中略)えーと、世界がとても静かです。入力も喪失し、呼吸筋や心臓を動かす負担も無く、括約筋も緊張する必要がなくなった。体内の騒音源がなくなったので、とても静かで楽です。もう、死の世界に入って来たようです。

(中略)こ、この経過をみんなに伝えたい。哲学的にも医学的にもものすごく興味深い領域です。もしアウトプットする時間とエネルギーがあれば、「人間の現在」の完結編としてベストセラーの本が書けるし、視聴率トップの面白いTV番組も作れます。でも、もう自分はそれが永久にできない。

(中略)し、死に逝くというこんなに面白い瞬間が一度は誰にでも訪れるのに、それが明確に記述できていない。人類に言葉というミームができて何千年も経つのに、誰一人として記述に成功していない。実に残念です。脳活動を直接、言語化できる技術の完成が待たれます。

(中略)皆さん、誰でもいずれこの瞬間を経験します、、、。

(中略)えーと、まだ思考している。脳が考えているのか、身体の他の部分が考えているのか分からない。脳と同じ程度の神経細胞がある腸かも知れない。 

(中略)あー、これが死かー。 えーと。あのー。そのー、、、。

(中略)ーーー。

正直に書くと、最初は「怖い人」「変な人」だと思っていました。
2003年に、ロボットをテーマとした企画で初めて担当させてもらうことになったのですが(今はなき『月刊現代』という雑誌でした)、とにかく意思疎通ができない。
電話をしてもロクに話を聞いてくれず10秒足らずでガチャ切りされました。
ネコビルの3階、立花さんの仕事部屋に資料を届けに行っても「あ、そう。あ、そう」と言われるだけで、すぐに話が止まりました(要は「帰ってよし」ということです)。
小心者の私は、仕事上、立花さんにどうしても伝えなければならない「何か」がある時には、立花さんが目をかけていたフリーランスライターの緑慎也さんに頼んで伝えてもらうようにしていました。立花ゼミの教え子でもあった緑さんは、物怖じすることなく立花さんと話ができたので、「媒介」として非常にありがたい存在でした(そして私はそんな緑さんが羨ましかった)。

やがて、担当者として徐々に、立花さんの面前での「滞在時間」が長くなるうちに、立花隆という人物の「面白さ」がわかるようになってきました。
やっぱり原稿が面白いんです。今後のロボット産業の発展をカンブリア大爆発に例えたり、自民党の派閥のシステムはイギリスのような連合王国を想起するとわかりやすいとか、異質のものを組み合わせた比喩や譬えが抜群にわかりやすくて面白くて、そういう「物の見方」があるんだなとしばしば感動したものです。
(私が言うのは失礼かもしれませんけど)あれで、可愛いところもあって、よくカンヅメになって原稿を書いているときに、お腹がすくと近くのコンビニでサラダなどを買うのですが、サービスでついてくるドレッシング(数種類)から何を選ぼうかじっと考えこんだりしている姿が、なんとも言えずユーモラスでした。文体も柔らかくて、いただいたばかりの原稿用紙に「びっくりした」「ザマ―みろと思った」とか書いてあって、思わず「ぷ」と吹き出しそうになったこともあります(ちなみに、立花さんの書いた「字」を解読するには、それなりの年季が必要です)。

2005年、オリバー・ストーン監督の映画『アレキサンダー』を誌面で論じたい、というご提案をいただきました。最初の打ち合わせのときに「人種の融合・調和を唱え、世界遠征に乗り出したアレキサンダーと、イラク戦争で見せたブッシュ政権・ネオコンの見せかけの大義とは重なって映る。それこそが(映画をつくった)ストーン監督の狙いだろう」という趣旨のことを立花さんが発言され、「おもしろい。それをぜひメインで書いてください」という話になりました。ところが、1枚ずつ上がってくる原稿を読んでも読んでも、いつまでたってもその話が出てこない。「立花さん、この話、書くんじゃなかったんですか」といくら言っても「あ、そう。わかったわかった」と言うだけで、とうとうお願いしていた枚数に達してしまいました。「やばい。編集長に怒られる」と思っていると、最後の最後の最後でようやくその話が(ペラ4枚ぐらいで)出てきて安堵したということもありました。

その記事を掲載した『月刊現代』の編集後記に、「タチバサンダー大王」拝謁記なるものを書きました。詳細はとてもここには載せられませんが、今読み返すと、(ネコビルで原稿を待っているうちに)立花さんの膨大な書籍群の中に「性関連」コーナーがあって、思わず読み耽ってしまったとか、2階の事務部屋にあった椅子を束ねて横たわり、束の間の惰眠をむさぼろうとしたとか(立花さんは3階で執筆中なので、気づかれない)、ロクなことを書いていません。「アナタ、あの本読んだことある?」「こんな人知ってる?」と立花さんに尋ねられたことの9割は答えられなかったと思います。本当に駄目な担当者でした。
でも、立花さんと仕事ができたあの頃の思い出は、私の編集者人生にとって素晴らしい宝物のようなものです。立花さんのために夢中で働けたあの時代は本当に楽しかった。

おそらく立花さんはいま、あちらの世界で神様や天使をかたっぱしから捕まえて「アナタさ、聖書読んだことある?」「宇宙や生命はどうやってつくったの?」「神様の国の統治形態は? 宗派ごとに選挙的なものを行うの? 下界との関係は?」「人間はどこからきて、どこへ行くの?」などと、ありとああらゆる質問を連発していることでしょう。それはそれで立花さんらしいと思います。

立花さん、本当にありがとうございました。
よかったら、あちらの世界でも担当させてください。

おもに科学技術と社会の関係についての仕事で御一緒させていただきましたが、研究者や大学人とは違った視点から、より広く、長い時間軸で考えた御意見を多数いただき、そのたびに目を開かされる思いでした。猫ビルにお邪魔したときに聞かせて下さったオーディオセットの超絶の美音が忘れられません。新たな音場が目の前にふわっと出現したようでした。御冥福をお祈りいたします。

御父上が戦後、創立間もない全国出版協会にて「全国出版新聞」の編集長をされていたご縁で、立花隆様には、平成18年より15年の長きにわたり、公益社団法人全国出版協会の理事として、ご尽力を賜りました。
立花様が日本の出版界において、果たされた役割の大きさをあらためて振り返り、心よりご冥福をお祈り申しあげます。

畏友 立花君が逝った

彼とは、茨城県水戸市の小・中学校、大学も、ずっと一緒だった。
敗戦直後の昭和22年、新制教育が始まった年に、僕らは1年生になった。貧しく、栄養不足で鼻水をたらしていたが、明るく元気一杯だった。立花君のあだ名は、タコ。坊主刈りで、タコのように円い顔をしていた。僕はイタチ、姓の板谷のイタに、イタチのように落ち着きがなかったからか。たしかにタコは秀才だったが、僕が一番凄いと思ったのは、面白い遊びを考えだす抜群の才能だった。一緒に遊べば、ハラハラドキドキ。面白い。

鉱石ラジオの組み立てを、クラスで真っ先に始めたのは、タコだった。
モールス符号を覚えたついでに、ラブレターを暗号で書く遊びを考え出した。お目当ての子には、解読のためのキーワードを渡しておく。まだ小学4年生だから、ラブレターの中身は、早熟なタコを除けば「あしたアソボ」とか、他愛のない中身だったかもしれない。  ただ、この遊びが、授業中に広がり、先生は立ち往生。大目玉をくらうことになった。  次から次へと面白いことを考えては、熱中した。すでに、この頃から、彼の読書は半端でなく「図書室の本を全部読んだ」という、伝説が生まれたりした。

小学5年生の冬、霜で校庭がぬかるむので、学校が石炭ガラをまいた。ところが転んで怪我をする生徒が続出。学校は、今度は、生徒を大量動員し、石炭ガラ拾いをさせた。タコは、学級新聞に「七色唐辛子」というコラムを設け、学校の朝礼暮改を批判した。強い者にも、忖度なく、立ち向かうのは、タコの資質であると同時に、彼が戦後民主主義教育の一期生である徴でもあった。彼の少年時代からの、こうした資質、あくなき好奇心や探求心、ユニークな発想や行動力が、後年大きく花開いた、と言っても間違いなかろう。

しかし、人生はもちろん一筋道ではない。曲り道も、分かれ道もある。     
大学時代、立花君には、文学サークルなどを中心に、5人の仲間がいた。小説家になりたいと言っていた者も、結局、みんな就職した。ところが、1年半程たった頃「会社というのはくだらない。1年以内に辞めなければ、2万円払う」という賭けをして、4人は、次々に、大手出版社やテレビ局などを辞めた。立花君は文春を辞めた。私は、父も祖父も美術の仕事。自由業の食えない辛さを見てきたので、この危険な賭けには参加しなかった。

さて、辞めた立花君は、一体なにを目指していたのか?
フリーの物書きかと思ったら、大学に戻って哲学科に入学。哲学の先生になりたいのかと思ったら、それも辞めて、また物書きに戻った。その後も、新宿ゴールデン街でバーを経営したり、それも辞めて 中近東やヨーロッパを放浪したりと、タコは、フラフラ漂流している ”タコの漂流”では、洒落にならないと、僕は、少し心配だった。

しかし、これは凡人の取り越し苦労。立花君34歳、文春の特集「田中角栄研究」で一躍その名を轟かせた。それも、政治部の記者がやらなかった、彼らしいきわめて独創的な調査と緻密な分析で、総理の金脈をあばき、退陣まで追いこんだ。ハナタレ小僧の遊び仲間が、ペンと度胸で、歴史を変えたこの事件を、僕は、誇らしく今も懐かしく思い出す。

立花君は、僕が心配していた“タコの漂流”の時期ーこの「迷いや惑いの時期」こそ、徹底的に読書をし、それが「自分の血となり、肉になった」と書いている。彼の知の領域は、政治から、宇宙、科学、宗教、死まで、分野を越えて広がり、しかも、その問いかけは、つねに深く根源に向かっていた。

この4月、僕は病床の立花君に電話した。重い病の床にある人に、病状をよく知らぬまま話すことは難しい。万一気持ちを害せば、一生の禍根になりかねない。しかし、立花君の声は思いのほか張りがあり、心が定まっているのか、懐かしく思い出を話し合うことができた。

だが、かねてから、立花君が心配してきた“日本の衰退”はどうなるのか?政治や経済の劣化は、どんどん進んではいないのか?科学技術は、大丈夫なのか?日本のコロナ対策は、これでも科学的といえるのか?彼が大事にしてきた戦後民主主義はどうなる?軍国主義の台頭をたしかに抑えられるのか?それを聞くには、時遅く、残念ながら時期を失していた。

前の「お別れのメッセージ」で述べられているように、屋久島でヤクザルを追跡調査していた岡安直比さんのもとに立花隆さんは取材に訪れました。その時同行した「平凡社の編集者」です。
屋久島行きの直前の1986年8月1日には、立花さんは京都で今西錦司先生をインタビューされています。これは『サル学の現在』の序章に収録されていますが、人類学・霊長類学の泰斗が公式に発した最後の言葉だったと思います。そこで今西先生は、インタビューの終盤、次のように発言されます。
「(……)しかし人類の起源を類人猿に求めても、もう求められんという考えやな、ぼくは」
「ぼくは、もう今、類人猿から人類の起源を探ろうという野心は捨ててますよ。(……)」
これから連載で、サル学の最前線で研究を進める研究者たちを取材しようという矢先に、いきなりその道の権威から「サルから人間は分からん」と宣告されたわけです。
そこで立花さんは第2回の取材は、フィールドを見に行こう、フィールドでサルを観察する若い研究者(つまり岡安さん)に会いに行こう、と決められたのでした。立花さんのこうした取材方法の切り替え、視点の移動はほんとに胸のすくようなワザだったと思います。このことによって、その後、あしかけ5年にわたる22名の研究者・学者へのインタビュー、全22テーマの『サル学の現在』はできました。確かに人類の起源までは遥かに遠いかもしれませんが、サルたちのじつに興味深い生態がそこにはありました。
ちなみに立花さんが面白がったのは、ピグチン(ボノボ)のメスの〈ホカホカ〉とゴリラの同性愛、DNAで分かるニホンザルの父子関係などです。それをニコニコ顔で話なす立花さんが今でも目に浮かびます。ゴリラの話をしてくれたのは、当時35,36歳でバリバリのフィールドワーカーだった山極壽一前・京都大学総長です。
ところで、岡安さんへの取材後、屋久島では山羊を食べる習慣があるということで、立花さんがどうしても食べてみたいというので、地元の方に頼んで山羊を1頭吊るし切りにしてバーベキューにして食べたのでした。みんなでわいわい食べている最中、ヤクザルを食べたことはあるかというようなことを聞いていました。食への探究心も立花さんはすごかった。
立花さんともう一度あちこち取材に行きたいです。

立花 隆さんが逝った…。
忘れもしない1986年。春に修士論文発表会を臨月のおなかを抱えて済ませ、その足で娘を産みに行き、4カ月半経った夏から屋久島に住み込んで、ヤクザルを追いかけていた35年前。『サル学の現在』の元になった月間アニマの連載の取材で、秋になると立花さんと平凡社の編集者が来島された。

今と違って、インターネットどころか携帯電話もない時代。特にアポを取ってというより、立花さんの旺盛な探求心で、ガリ版刷りの「屋久島のサルとシカ」という伊谷(純一郎)・河村両先生の短報を発掘し、日本で最初にサルの調査が行われたゆかりの地を、連載開始の前に観ておこうというのが目的で来たと伺った。当時、たまたまサル小屋を訪ねていらした時は、院生も私しかおらず、まずは山のご案内から始まった。世界遺産に登録されるずっと前のことで、西部林道と呼ばれるサルたちを観察する道路も山もワイルドで、猟期になれば有害鳥獣駆除で鉄砲の音が響き、珍しい鳥の密猟者や野生ランの盗掘者もうろつく時代。そこをスパイクのついた磯足袋で、一人で歩き回るお転婆に驚かれたらしい。

​おまけに赤ん坊連れで、朝は母乳を絞って冷凍するところからフィールドワークが始まる私の暮らしに呆れ、最初に取材された今西錦司先生とのあまりの落差に「次はこいつだ」と即決。原稿を仕上げるまでに、いかにフィールドの臨場感を出すかと何度も書き直されていた熱意を、訃報に寄せて親しい方が「凝り性だった」と口を揃えられているのを見て、懐かしく思い出した。しかも駆け出しの若造の私にも、何度もゲラを見せて確認をしながらの作業だった。
来島時、「1年の連載で12回」だけで方法も決まっていなかったために、いきなり私がトップバッターになって、そこから「誰か次の人を推薦してください」。こちらはまだ、アフリカのアの字も無く、ニホンザルの論文を書かなきゃならないタイミング。研究室の先輩の論文が話題になっていた頃で、迷わず高畑さんの名前を出した。こうやって取材元が次を推薦する方式で、立花さんの縦横無尽のサル学思考は私たちの“業界”を泳ぎ、4年に及ぶ連載36回で『サル学の現在』という集大成が世に出た。

あれほどお忙しかった立花さんだが、取材で京都においでになれば声をかけてくださって、何度かご一緒する機会を得た。その後、私はさらにお転婆が募り、娘連れでとうとうアフリカに移住してしまったが、いつも「卵」がどうなったかを気にしてくださっていて、こんな素敵なご著書の中で、拙著3冊をご紹介いただいたことは一生の宝である。

最近は体調を崩されているらしい、とは知っていたが、報道ですべての治療を拒んだことを知り、いかにも立花さんらしい最期を選ばれたのだと感服した。心からご冥福をお祈り申し上げます。

週刊文春の読書日記ページ、立花さんの回がスキップされるたびに、不安に思っていました。そして、家族と「やはり連絡してみよう」と話した翌朝、訃報が届きました。
これは「虫の知らせ」だったのでしょうか。
この話をしても、立花さんは一笑に付されることはないと思います。
そう、立花さんは、怜悧な「知の巨人」であるだけでなく、大変なロマンティストでした。
考えてもみてください。締切などお構いなしで、原稿書きが進まない、電話をかけたら、不機嫌そうにガチャン続きなのに、「ボクは怠け者だから、ガンガン催促しないとダメだからね」ですからね。
原稿をもらうのに効力があるかもしれないと、後楽園駅の近くで、生まれて初めての献血をしてから、仕事場への坂道をのぼったこともありました。
それでも、逃げだすどころか、吸い寄せられていったのは、立花さんには、仕事の枠をはるかに超えた幅広さと奥深さがあったからでしょう。そして、そのカギはロマンティシズムだったのだと思います。人間、人間性に対する強い関心と熱い感情。リアルな知識を超えた、広く大きな世界への思い。それが強く感じられるからこそ、私だけでなく、多くの人たちが立花さんに惹かれたのだと確信しています。
原稿催促などそっちのけでさまざまな話を聞くのは、試されているようで怖かったけれど、刺激に満ちた、かつてない経験の連続でした。
たとえば、オペラを始め、クラシック音楽の世界にも造詣の深い立花さんに「これまでで一番感動した音楽は?」と尋ねたことがありました。返答は「ギリシャのアトス山の修道院で聴いた合唱」でした。おかげで、私は宗教音楽の深く広い世界について蒙を啓かれることになりました。
私という人間の形成に、立花さんは大きな大きな力を及ぼして下さいました。
樹木葬を選ばれたのも、ロマンティストの立花さんならではのことと、得心しています。

1996年の春、東京大学の駒場キャンパス。修士課程の学生だった私は、隣の研究室の松田良一先生から、「今度立花隆さんの学部生向けのゼミをやることになったから、手伝ってくれないか」と言われ、ティーチングアシスタント(TA)に。有名人に会えるからと軽い気持ちで始めたTAでしたが、その経験が私の人生を変えました。

学生でも誰でも発信ができるインターネットがいかにすごいか熱っぽく語る立花さんの話に刺激を受け、その日のうちにホームページを立ち上げたことを、昨日のことのように覚えています。

夜になっても終わらないゼミにヤキモキしたり、「二十歳のころ」を作る、少し若い学部生をうらやましく思ったのもよい思い出です、

あれから25年。立花さんとお会いしたのは結局それきりだったのですが、調べて書き、ネットなどを使って公開することを続けています。立花さんと出会わなかったら今の私はなかったでしょう。

いつまでも忘れません。どうか安らかにお眠りください。

本棚をとにかく全部撮るということで初めて猫ビルにお伺いしたとき、真っ先に思ったのは、先生は本を淫する人ではないということだった。本が好きでたまらないといった人の本棚とはあまりにその佇まいが違っていたからだ。
 何度も開かれて形が崩れたり、信じられないほど付箋がはさみこまれたり、もの凄く書き込みがあるものと同じ新品の本が無造作に置いてあったりもした。先生の本棚には、知識を吸い尽くされて抜け殻のようになった本が何冊も何冊も収まっていたのだ。
 先生は夜に出筆するので撮影はもっぱら朝から昼ご飯を挟んで夕方前には終わるというペースを週三回、一年半続けた。朝早く猫ビルの三階に行くと机脇のベッドに寝ておられる時もあった。先生とあまりお話しする機会はなかったが、それでもコヤツはどんな写真を作る気なのかと良く見ていただいていたのだと思う。
 『立花隆の書棚』の写真展のおりに、たしか三丁目の書棚の大きな写真を指でポンポンと叩きながら「この本探していたんだよ!こんなところにあったのか」と嬉しそうにいわれたのをおもいだす。そのとき僕は迂闊にもそれが何の本だったかを聞き漏らした。
あのとき見つけられた本は何だったのですか。と、先生にもう一度お聞きしたかった。

僕より3つ年上なのに、幼い日々、毎日一緒に遊びましたね。鉱石や単球のラジオ作りを教えてくれたのはちっちゃん(そう呼んでいましたよね)でした。そして、橘家と池辺家は同じ列車で、水戸から東京へ(橘家は千葉県柏市へ)引っ越しました。飛び回ったあの水戸の祇園寺近くの光景を、今でもはっきり覚えています。そのあとも、よく会いました。東大駒場時代は、僕の家でよくご飯を食べましたよね。ちっちゃんがいた駒場の今にも朽ちそうな寮も、なつかしいです。ゴールデン街の「ガルガンチュアたちばな」も .......。ちっちゃんのNHKのレポート番組に僕が音楽を書いたり、研究の対象となった武満徹さんは親しかったので、そちらからちっちゃんの話を聞いたり、ということはありましたが、会う頻度は少なくなっていきました。お母さまを偲ぶ会で、小学校同級だった妹の直代ちゃん、お兄さまの
弘道さんもともに会えたのが嬉しかった。その日からも、もうずいぶん経ちましたが......。仕事の合間を見つけて、もっと会って、もっと話を聞いておきたかった......と悔やんでいます。ほかの誰にもできない、あれだけの仕事をやり尽くしたのです。どんなにか疲れたでしょう。ちっちゃんは、おおいなる声に「もう休め」と言われたのです。やっと、休める──思う存分、ゆっくり、ゆったり、のんびりと休んでください。おやすみなさい、ちっちゃん。

突然の訃報に接し、大変沈痛な想いであります。長門市民を代表し謹んで哀悼の意を表させていただきます。

立花様は本市出身の香月泰男画伯と親交が深く、生誕100年にあたる2011年、本市の山口県民芸術文化ホールにおいて記念講演を行っていただいた際は、画伯のシベリヤ・シリーズがどのようにして生まれたか、画伯はなぜこのシリーズを亡くなるまで描き続けたのか、その真実を多くの市民に語っていただきました。立花様から賜りましたご見識の数々を、私たちはしっかり後世に引き継いでまいる所存であります。

「知の巨人」と呼ばれた立花様のこれまでのご功績に心からの敬意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

僕は、立花さんにお願いをしてNHKで3本の番組を作りました。最初は2009年に放映された「未来をつくる君たちへ 立花隆が語る緒方洪庵」という番組で、立花さんに大阪まで出向いていただき、中学生達にお話しをしていただきました。立花さんは、それまで大学生や大人たちには講義をしたことがあるが、子供達は初めてなのでどうしたものか夜通し考えたとおっしゃいました。そして、ご自分の14才の頃を思い出され、なんと走り高跳びをしている写真を探し出して、お持ちくださったのです。講義当日、スライドに映された写真を見る子供達の目の輝きが忘れられません。子供達の緊張がとけ、皆が立花さんのお話しに引き込まれていきました。その後のある日、立花さんから電話がかかってきて、その話しあいから、2010年に「人類よ 宇宙人になれ 立花隆vs小学生」を放送し科学放送高柳記念企画賞もいただきました。そして2012年には「君たちは宇宙人である 立花隆vs仙台の小学生」に発展しました。立花さんの事務所にお伺いした時の雑談などもすべてが印象的です。同行した別のスタッフが「立花先生」と呼んだのですが「先生って言わないでくれる」とおっしゃったのも思い出します。立花さん。ありがとうございました。少しお休みください。

編集者として脱帽したのは、立花さんの見事な仮説の立て方でした。原本に当たる、出来る限りの出版物、書類を集めて読み込み、記事の出来上がりを想定する。その仮説のすばらしさは他を圧倒する魅力と力を持っていました。人間に対する根源的な問い。人間とは何か、どこからが物体になってしまうのか。その探求の人生だったのかと思います。仕事に対しては譲らぬ怖い人でしたが、人間的にはかわいらしいところがある魅力的な人でした。深夜、執筆する後ろで原稿の出来上がりを待っていたとき振り返り、「あっ、まだいたんだ」と笑って、お互いに顔を見合わせたことを思い出します。

立花隆さんは東大駒場の同人誌「駒場文学」の先輩です。その後、何十年も経ってから、私の関係する立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科および立教セカンドステージ大学に同僚として加わってもらえたおかげで、ほぼ毎週、親しくお付き合いしていただく機会を得ました。とりわけ庄司洋子さん(立花さんと駒場で同期)を交えた3人でしたおしゃべりはとても楽しい思い出です。また、文芸春秋誌では、「社会デザイン」と大学院21世紀社会デザイン研究科の特色について詳しく紹介してくださる等、お世話になることもいっぱいありました。80歳で亡くなるとは! そりゃないですよね、立花さん、あまりにも早逝です。合掌

企画・編集させていただいた『立花隆の書棚』は、自分の仕事人生において、非常に重要な位置を占める。ちょうど、中央公論新社から独立をして、夜間飛行を立ち上げた時期だった。私の仕事が遅く、立花さんをはじめ、カメラマンの薈田さんにもご迷惑をおかけした。

ネコビルには自由に出入りさせてもらっていた。鍵を開けて、ビルに入る。棚を眺める。ノートパソコンを開く。ネコビルの曲がりくねった階段に腰を下ろし、立花さんが書棚の前で語ってくれた話を原稿としてまとめていく。真夏のネコビルは暑かった。

立花さんは、自身の仕事を振り返りながら、「まだ本になっていない仕事がたくさんある」という話を必ずされた。聞き手として、かなりがんばって「当時の話」に引き戻していかないと、ずっと「これからの話」をする方だった。

2年ほど前だったかと思う。立花さんから電話があった。書庫のいくつかを整理することになったと言う。「例の本を作ってもらってね、まあ……」。よく聞き取れなかったが、「助かった」とか「よかった」とかそういう方向性の言葉だった。短い電話は一方的に切れた。

立花隆さんの数々の本が、読み継がれることを願います。謹んでお悔やみ申し上げます。

立花さんと最後にお会いしたのは3年前位だったと思います。

今、私がどのようなプロジェクトに携わっているのか等、ご報告をさせていただき、立花さんの現在の関心事なども拝聴いたしました。

立花さんと最後に交わした会話の中で、とても印象に残っているお話は、『宇宙からの帰還』という書籍がどのような経緯で出版されたのか、そもそも、なぜ、アポロから帰還した宇宙飛行士に立花さんがインタビューすることになったのかというお話です。ここではその内容については触れませんが、その時に、改めて、先生の探求心、冒険心、さらには行動力に感銘を受けたのを覚えております。

そして、私の心にはいつでも立花さんからの学びがあり、温かさがあります。特に子どもたちに対して「次世代への想い」を熱く語る立花さんの姿は今でも鮮明に覚えております。私にできることは、立花さんが子どもたちに伝えていた「宇宙consciousの重要性」を、私なりに次世代につないでいくことだと思っております。まだまだ精進の日々ですが、いつまでも立花イズムを忘れずに、邁進して参りたいと思います。

本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。

ソ連崩壊から30年が経過した今年、当時の立花先生のご発言を紐解きましたところ、
格差の拡大、排外主義の蔓延、環境の悪化など、その先30年の世界の危機を
鮮やかに見通されていらして、改めて深く感銘を受けました。
まさに知の巨人といった思いがいたしました。

数々の素晴らしいお仕事を誠にありがとうございました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

最初の出会いは1978年。出版部で『アメリカ性革命報告』を担当した。お互い30代のこのとき、立花さんは必要最小限の受け答えに終始し、私に話しかけてくることは皆無に近かった。なつかないドラ猫みたいだ、俺は嫌われてるのかなと思った。立花さんを「怖い」とか「不愛想」とか言う編集者もいるが、経験上、そんな印象を与える面があることは確かだ。しかしその先に、実はちっとも怖くなく不愛想でもない、ものすごくチャーミングな立花隆がいたのだった。

10年経過した1988年(猫ビル竣工の4年前になる)、月刊誌で利根川進さん(ノーベル賞)へのインタビュー連載(『精神と物質』)を担当。文春ビル9階大会議室に膨大な資料を持ち込み、締め切り前1週間ほどは缶詰になってもらった。親しくなれたのはこのときからである。

連載初期の某日、締切が近づいたので立花さんに電話した。「文春の平尾です」。名乗ったとたん、無言のままガチャンと電話を切られた。え? 何なんだ? 頭にきた私は即、かけ直し「立花さん、失礼じゃないですか。用があるから電話してるんですよ」と抗議した。すると寝ぼけたような声で「あ、ああ、あーん」という返事。「用件はこれこれ、それにこれこれも忘れないでください」と伝えると、そのたびに「はいっ」「はいっ」と、とつぜん素直な返事が返ってくる。 私は可笑しくてたまらず、そうか、これが立花さんなんだ、と分かった気がした。何かに夢中になると、他のことはいっさい目に入らない。用件が何か、相手が誰かは関係ないのである。その集中力が、一晩で40枚(400字)以上の原稿を書かせるわけで、自分の前にいるのは愛すべき天才ではないか。そういえば、一見エラそうにしているようで、本人は決して威張らないぞ。インタビュー相手への謙虚な姿勢と勉強ぶりは尊敬に値するぞ。立花さんのことが好きになり、以来、知れば知るほど 大好きになった。列挙するのは控えるが、数多の仕事をお願いし、無理かなと思っても引き受けてくれた。教えられたことやエピソードは数えきれず、感謝の気持ちしか見当たらない。

彼は戦後最大のジャーナリストだった。1992年から続いた「読書日記」を通読すれば、そのことがよく分かる。理系文系を往還し、政治経済も宗教や歴史も、下ネタまでを含めて、いかに「知の世界の全体像」に好奇心を燃やし続けたことだろう。

立花さんは自ら「知識欲中毒」(知識中毒ではない)だと言っていた。東大ゼミを始めたころ、「俺は元々勉強が好きだったけど、東大で教えるようになったいま、人生でいちばん勉強してるんじゃないかなぁ」とも言っていた。若い人たちに優しかった立花さん。教え子によるこの追悼サイトは、何よりの手向けではないかと思う。

立花さんと私の両親は長年の友人だった。そんなわけで、幼い時から私は彼を「たちばなおじさん」と呼んでいた。小学校低学年の頃のある日、彼は私を神保町の本屋に連れて行ってくれた。そこで買ってくれたのが、子供用の「妖怪図鑑」。私はページが擦り切れる程夢中でその本を読み込んだものだ。そのせいか、ジャーナリストとなった今でも、この世ならざるものへの興味が尽きない。

たちばなおじさん、最後に一献交えたのは数年前になりますね。いつか酒席にあの世からふらっと登場してくれないかと楽しみにしています。

立花さんの好奇心というか探求心は「時」を選ばずで、知りたいことがあれば即電話をかけるという悪い癖がありました。今でも立花さんから夜中に「ちょっとさあ、、北朝鮮とキューバの関係はどうなっているの」などというとんでもない電話がかかってこない方が不思議な気がします。

スタンフォード大学の宿舎に住んでいた時も、立花さん家族が訪ねてきてくれました。彼は何故かどうしてもリンカーン・コンチネンタルを運転するんだと言い張り、あの図体の大きい車を借りてはカリフォルニアを走っていました。今あの場面を思い出すとちょっと笑えます。 

ふり返れば、立花さんとは半世紀近く、およそ「知」とは程遠い付き合いをしてきたように思います。私にとって彼は、かけがえのない良き友人でした。


最終更新日時: 2021 年 11 月 2 日(火)1332